陽は落ちかけ、あたりは夕焼け色に染まっている。気温はちょうどよく、すでに秋がやってきていることを悟った。思えば道端にある柿の木も、その実が膨らんできている。
小太郎は塾の帰り、自分の家に向かって歩いていた。祖母もいない、誰もいない家に。孤独を感じないと言えば嘘になるが、十四になった今、一人であることが当たり前になってきていた。それが孤独を克服することになるのか、小太郎はわからない。しかし立派な侍になるためには、必要な試練であることには違いない。
そろそろ家に差し掛かるところで、「小太郎」と呼び止められた。
振り返れば隣に住むナマエが立っていた。ナマエは小太郎と同い年で、武家の娘だった。ナマエの両親は小太郎の家のことを思い、幸いにも小太郎の一人暮らしに手や口を出してくることはなく、ナマエも何も言わないため、心地よい関係を築けていた。
そう思っていたが、彼女の表情は暗い。いつもにこにこしているナマエの姿しか思い浮かばなかったため、小太郎は呆気にとられた。
「……どうした、何をそんな暗い顔をしている?」
「…………」
ナマエは無言で俯いた。よほどのことがあるのだろう。
「何だ、悩みでもあるのか?」
「ううん、違う……あのね」
ナマエはこちらを見据えた。困惑しているように眉を下げ、瞳は若干揺れている。
「小太郎、未亡人が好きなの……?」
「ハァ!?」
思いがけない言葉に叫ぶ。
――なぜバレた、なぜナマエが俺の性癖を知っている !?
小太郎はグルグルと頭の中で自問自答したが、答えは出なかった。唯一わかるのは、ナマエに未亡人好きがバレてはならないということだ。ナマエは銀時や高杉とも繋がっている。それもこれも小太郎がナマエを紹介してしまったからなので自業自得だったが、奴らに性癖がバレていじられるのは何としても避けたかった。
落ち着きを取り戻した小太郎は、とりあえず理由を聞こうと、さらりと尋ねた。
「……なぜそう思う?」
ナマエは言いづらそうに答えた。
「……そこの未亡人の松子さんと話してる時の小太郎、なんか嬉しそうだから」
――なんだ、そんなことが理由か。
小太郎は安堵した。ならばいくらでも言い訳を繕える。「それはだな」と話し出そうとして、ナマエに遮られた。
「それに……コンビニで小太郎が未亡人のちょっとアレな本買ってるの、見ちゃったの」
「な、何ィ!?」
これには言い訳できなかった。
「貴様、それは俺がエロ本を手に震えてるとこまで見てたのか!?」
「……ごめん、そこまでは見てない」
「ならばエロ本をジャンプでカモフラージュしたのも見てたのか!?」
「……見てない」
「そして俺の初恋がエロ本の未亡人だなどと笑っていたのか!?」
「笑ってない !!」
ナマエが大きな声を出し、小太郎は正気に戻った。心なしか彼女の目には涙が浮かんでいる。
「ナマエ……?」
「小太郎が未亡人好きなのは、よーくわかった! そりゃあ、私のことなんて眼中にもないわけよ! 小太郎なんて知らない、もう大嫌い!」
わーん、と泣きながらナマエは去っていった。小太郎は呆然とその後ろ姿を見つめる。ナマエは自分のことが好きだった。まさかの事実に驚きを隠せない。
「みぃーちゃったぁ、みぃーちゃったー」
物陰から銀時が姿を現した。にやにやといやらしい顔をしている。一番この場面を見られたくない者だった。
「だからバレンタインもお前だけなんか豪華なやつだったんだな、てっきり近所に住むよしみかと思ってたが、単純にお前に惚れてたわけだ」
「ど、どこから見てた?」
「え? ナマエがお前呼び止めるとこから」
鼻をほじりながら言う銀時に、小太郎は絶望する。ならば未亡人好きも知られてしまったというのか。
「てかヅラ、追いかけなくていいわけ? ほら、女子ってこういうとき、追いかけられるのを期待してんだろ? 早く行けって、行ってお前の想いを伝えてこい」
「他人事だと思って……俺はナマエをそんな目で見たことがない!」
「ふーん」と銀時は目を細めた。
「きっとあいつ、高杉んとこ行ったぜ。高杉、ナマエのこと好きだからな。あいつらどうにかなっちまうかもな」
想像してとても嫌な気分になった。ナマエが、高杉のものになる。なぜだかものすごく嫌だ。嫌すぎる。
「……ま、待て、ナマエ!!」
小太郎は駆け出した。高杉のものになるのは勘弁してもらいたかった。
「……これで気づくかね、あのバカ」
ナマエは高杉の元に行くほど計算高い女子ではない。キューピッドになった銀時は、鼻くそをピンと飛ばして呟いた。
ナマエは神社の境内にいた。高杉は傍にいないようでほっとする。階段でしゃがみこんで泣いているナマエに、小太郎はそっと近づいた。
「……ナマエ」
ナマエは顔をあげず、鼻を啜りながらこう答えた。
「……小太郎なんか嫌いって言ったじゃん」
「嫌よ嫌よも好きのうちっていうだろ。ナマエの気持ちはよくわかった」
小太郎は彼女の隣に座った。
「……俺は、未亡人が好きな訳ではない」
「……え?」
「NTRが好きなんだ」
「ね、ねとられ……?」
「そう、NTRだ」
ナマエは顔を上げ、ぽかんと小太郎を見ていた。小太郎は彼女を見て微笑んだ。頬を伝った涙のあとに、赤い目、おまけに鼻が出ている。こんな酷い顔をしているナマエは初めてだ。自分が彼女を泣かせたと思うと、変な優越感が湧いてくる。
「これで鼻を拭くといい」
小太郎は懐からハンカチを取りだしナマエに渡した。ナマエはありがとうと受け取るも、鼻を拭かずに言った。
「待って、ねとられって何?」
「NTRはNTRだ。相手のいる女子をだな……」
小太郎は説明しようとしたが、ナマエという純情な娘にする話ではないと判断し、こう締めくくった。
「まあ、要するに旦那や彼氏のいる女性を略奪するってことだ」
「……何それ、サイテー」
低い声でナマエが言った。彼女の目は明らかに自分を蔑んでいる。小太郎はナマエと仲直りするつもりでここまで来たのに、これでは自分への好感度がゼロになってしまう。
「だ、だが男なら誰でも性癖のふたつや三つくらい持っているものだ! 皆隠しているだけで……」
「じゃあ、銀時も持ってるの?」
「銀時? あいつはSMが好きとか言ってた気がするな」
「……男子ってサイテー」
だめだ、今度は矛先が男全体に向いてしまった。
「ならば、ナマエはどうだ? そういう癖はないのか?」
ナマエは涙を拭きながら答えた。
「……ないよ。私は好きな人と一緒にいれるだけで十分」
そう言ったのは自分だというのに、先程の告白めいた自白を思い出したのか、頬が赤く染まっていった。
――かわいいな。
小太郎はその様子を見て自然と思った。思ってしまった。これではまるで、ナマエに気があるようではないか。小太郎は動揺を隠すように、彼女の手からハンカチを取ると、ナマエの鼻を拭いてやった。
「い、いいよ、小太郎のハンカチが汚れちゃう」
「大丈夫だ、汚れても洗えばいい」
ナマエは抵抗をやめ、拭かれるがままになった。小太郎はまたハンカチを懐に入れようとしたが、ナマエがそれを制した。
「私、洗って返すよ」
「いや、いい。俺が洗う」
「……口実、作らせてよ」
「え?」
「小太郎と会う口実、作らせて……」
顔を真っ赤にしながら俯くナマエに、小太郎はどきりとした。なんだこの気持ちは。ナマエがこの世で一番可愛らしく、守るべき存在であるように思える、慈愛に満ちた、やさしい感情は。
「……なんだ、俺が嫌いなんじゃなかったのか?」
誤魔化すように尋ねれば、ナマエは困ったように口を尖らせた。
「確かに言ったけど、でも……」
ナマエは真っ直ぐにこちらを見た。今までにない真剣な瞳。小太郎は彼女の目に吸い込まれそうになる感覚に陥った。
「小太郎が、好き」
ズキュンと小太郎の心は射抜かれてしまった。なんだこれは。心臓がうるさい。エロ本の未亡人を見た時でさえ、こんなにやかましく鳴っていなかった。
無言で胸を押えている自分を、「大丈夫?」とナマエが心配してくれている。大丈夫、の前に返事をしなければならないと小太郎はわかっていた。彼女の真っ直ぐな告白には、真っ直ぐに返さなければならない。
「……俺も、ナマエが好きだ」
「えっ !?」
ナマエは驚いていた。それもそうだ。今の今までそんな素振りを見せていなかったのだ。小太郎は言葉を続けた。
「正直に言えば、今までナマエを家族のように思っていた。だがナマエが高杉と結ばれると考えたらどうしようもなく嫌で仕方なく、気づけば追いかけていた……」
「えっ、晋助? どういうこと?」
「ああ、いや、何でもない……ナマエ」
ナマエを見据える。彼女は姿勢を正した。
「俺と、付き合ってくれないか?」
「……もちろん!」
ナマエはにっこりと頷いた。そうだ、彼女には笑顔が似合う。二度と悲しい顔をさせてはいけない。
「――というわけで、俺はボケることに専念しようと思う」
松下村塾の休み時間。各々が好きに過ごす中、小太郎は銀時からどうなったか聞かれ、顛末を話した。
「そんな終わり方が聞きたかったわけじゃねーんだよ! てかてめーがこれ以上ボケたらツッコミが枯渇するわ!」
「む、銀時、いい感じじゃないか。これを機にツッコミに精を出すことだな、フハハハハ」
「うぜー、何こいつ」
頭ん中ピンク一色だからますますうざくなってやがる、と銀時が呟いたところで、後ろから声がした。
「ヅラがうざいのは当たり前だろ、何で『ますます』なんだ?」
高杉だった。
「いや、こいつ最近未亡人のエロ本買ったみたいで、それで頭ん中ピンクになってんだよ……なァ、ヅラ?」
「ヅラじゃない桂だ! それに頭の中ピンクなのはエロ本を買っただけじゃなくて――んぐ!?」
小太郎はナマエとの馴れ初めを話そうとしたが、その前に銀時に口を覆われた。離せ、ともがくも強い力で覆われている。
「だけじゃなくて、何だ?」
「き、近所の未亡人といい感じになってきてるんだってよ」
「ふーん……そういやあさっき、ナマエと会ったけど、ヅラの彼女になったとか何とか言ってたな」
「ハァ!?」
「貴様、いつどこでナマエに会った!?」
「さっきそこでだよ……まァ、なんだ、羨ましいなんて俺ァてんで思っちゃいねーが……よかったじゃねーか。羨ましくも何ともねーけど」
「…………」
小太郎たちが何も返せないでいると、高杉は自分の席へ戻って行った。銀時がその背中を見ながらヒソヒソと言う。
「あれ、ぜってー羨ましいって思ってるよ。俺、なんか涙出てきたよ。チビの上に失恋なんて目も当てられねェ」
「高杉がナマエを好きというのは本当だったのか……」
「だから言ったろ? お前が追いかけなかったら高杉のものになるって」
「…………」
銀時がいなければ、自分はナマエを追いかけなかったし、自分の気持ちに気づいてもいなかっただろう。小太郎は銀時に向き直った。
「……銀時」
「あ?」
「感謝する」
「……礼言われる筋合いなんかねーよ。俺ァ事実を言ったまでだ」
銀時のそっけない応えに、小太郎はふっと笑った。
先生の授業が終わり、門を出ると、ナマエの姿を見つけた。目が合うと、にこにこと笑って「小太郎!」と駆けてくる。その姿が愛おしく、自然と頬が緩む。
「どうした、ナマエ。そっちの塾が早く終わったのか?」
「うん、だから待ってたの」
「よう」
「あ、銀時。宇治銀時丼試したけど、おはぎみたいで美味しかった!」
「やっぱな、ナマエは俺と味覚が合うもんな!」
――宇治銀時丼?
自分の知らない言葉で会話するナマエたちに、もやもやする。いつの間にこんな仲が良くなったのか。
「……じゃあな」
すたすたと高杉は帰っていく。ナマエはその後ろ姿を見ながら首を傾げた。
「……晋助?」
「……あいつはお前らの邪魔しないようにしてんだよ」
「そっか……」
ナマエは切なそうな顔をしたが、それは一瞬で、瞬きしたときにはすでにいつものにこやかな表情に変わっていた。
なんだか気に食わない。銀時と知らない話題で盛り上がることも、高杉に初めて見せる表情をしたことも。
「……帰るぞ、ナマエ」
「あ、うん。じゃあね、銀時」
「じゃあなー」
これが嫉妬というやつか。気づいて唖然とする。男の嫉妬ほどみっともないものはない、と「恋愛マスターになるための解説本(男性版)」に書いてあった。侍になるためにも、みっともない真似はできない。
「……どうしたの、なんか難しい顔してる」
「ああ、いや……宇治銀時丼とはなんだ?」
「銀時が好きな、餡子が上にのったご飯のことだよ。すっごい甘いんだ」
「あヤツめ、そんなものを食べているのか。侍になるのなら、質素な食事をすべきだ」
「ふふ、蕎麦とか?」
「そう、蕎麦とか」
クスクスと笑うナマエに、醜い感情が浄化されていく。ナマエの一挙一動にこんなにも気分が上下するものなのか。
小太郎はぐっと拳を握った。これでは侍にはなれない。侍とは自分の芯が通っている、何にも惑わされない心を持つべきだ。
「……小太郎、手、繋ご?」
――……まあ、いっか。
ナマエの可愛さが、小太郎の思考を停止させた。もっとも侍の中には、政略結婚だけでなく深い愛情を相手に抱いていた者もいる。恋をした侍も多いだろう。このブレは弱点にもなるが、それを跳ね返すほど強くなればいい。小太郎はナマエの手を握りながら、そう結論付けた。
「…………」
「…………」
互いに無言で歩く。一緒に歩いたことは多々あるが、なんせ今回は違う。手を握り合っているのだ。ナマエは緊張しているようで、少しぎくしゃくしている。それに照れているのか顔が赤い。
こういう時、何と言うのが最善だったか。「恋愛マスターになるための解説本(男性版)」を頭の中で開いてみたが、それらしき項目は見当たらなかった(小太郎はこの本を暗記している)。どうしようかと巡らせていると、ナマエが口を開いた。
「わ、私……手汗かいてるかも」
ナマエは恥ずかしそうに顔を俯かせる。可愛い反応に小太郎は微笑んだ。
「案ずるな……俺の方がヤバイ」
「……そうかな、これ私じゃないかな」
繋いでいる手を見れば、それはもうびしょびしょで、地面に滴っている。
「ちょ、なんだこのびしょびしょは!?」
「ご、ごめん……!」
ナマエは手を離そうとしたが、小太郎はそれを止めた。「恋愛マスターになるための解説本(男性版)」では、相手の欠点ごと愛せと書かれていた。
「離す必要などない……俺は手汗ごとナマエを――あ、あ――」
「あ……?」
「あ、アイスでも食べないか? 暑いのならば」
愛す、と言いたかったが、どうしても恥が勝り誤魔化してしまった。
ナマエはぽかんとしていたが、やがて笑いだした。
「なんだ、何を笑っている」
「ふふ、何でも……アイスはいいかな、夕飯もあるし」
「……そうか」
「……ねえ、小太郎。ハグしても、いい?」
「はあ !? いい訳なかろう、こんな人目につくところで……」
「じゃあ、小太郎の家でしてもいい?」
ナマエは上目づかいでそんなことを聞いてくる。あらぬ妄想が膨らみ、小太郎は鼻血を出した。彼は中学二年生の、健全な男子である。
「わ、鼻血!」
ナマエが慌てたようにティッシュを取り出し、小太郎の鼻を拭いた。
「ふふ、昨日の私と同じだね」
昨日ナマエが出していたのは鼻血ではなかったが、シチュエーションは同じだった。
「そうだな……」
「そうだ、昨日のハンカチ返すね。ありがとう」
小太郎のハンカチを渡される。皺ひとつなく、ぴしっと折り目がつけられていた。
――ナマエはいい嫁になるな。
瞬間、走馬灯のようにナマエを娶るまでの日々が過ぎり(すべて妄想)、小太郎はまた鼻血を出した。