どこにでもある夜の彩度

 ――懐かしい匂いがした。
 江戸の、このピンクに塗れた泥臭い町に似つかわしくない、柔らかく胸に迫る匂いが。振り返る。その娘もまた、喧騒の中で立ち止まり、こちらを見ていた。
ナマエ……?」
 久しく口にしていなかった名前を呼ぶ。
「銀ちゃん」とその娘はぎこちなく笑った。

「久しぶりだな」
 とりあえず万事屋にナマエを招き入れ、向かいに座る。今日はちょうど仕事がなく、新八と神楽には休みをやっている。普段は騒がしいこの部屋も、二人がいなければ静かになる。その静けさが、今は気まずい。
「……元気だったか?」
「うん……銀ちゃんは?」
「俺も元気だ」
「そう」とナマエは言って、先程銀時が出したお茶を一口飲んだ。そして目を伏せたまま口を開いた。
「……私、ずっと待ってたんだよ」
 その声には怒りがこもっていた。銀時は無言でナマエを見つめる。
「銀ちゃんとか晋ちゃんとかが、故郷に帰ってくるのを、ずっと待ってたんだよ……!」
「…………」
「でも、誰も帰ってきてくれなかった……みんなが生きてるかどうかも知らずに、私はただ待ってた」
 ナマエの目には涙が溜まっていた。ああ、こいつは昔から泣き虫だったなと頭の隅で思う。
「……悪かったな。知らせてやろうとはしたが、その役目は俺じゃなくてあいつだろうと思ってな……そうか、ヅラは帰ってなかったのか」
 その名前を出すと、ナマエははっと目を見開いた。それから自分の動揺を隠すように冷静な声で言った。
「……晋ちゃんも、小太ちゃんも無事なの?」
「ああ、無事だ。ピンピンしてる」
「よかった……」と心底ほっとしたようにナマエは言った。
「銀ちゃんも、無事でよかった」
「……おう」
 照れくささを感じ、誤魔化すために頭を搔く。
「……ここに来たのは、それを確かめるためか?」
「うん、そう……でもみんな無事だってわかったから、帰るわ」
 お茶ありがとうと言って立ち上がるナマエの腕を、反射的に掴んだ。
「待て」
「……銀ちゃん?」
「……ヅラも江戸にいる。一回くらい会ってもいいんじゃねーか?」
 ナマエは無言だった。部屋がますます静かになり、外からの声が小さく聞こえてくる。窓から溢れる夕陽に照らされながら、ナマエは口を開いた。
「……会えないよ」
 その声は微かに震えていた。
「だって、一回会っちゃったら、私――」
 ナマエを遮るように、がらがらと万事屋の戸が開いた。
「ただいまヨ〜、って何アルか!? シリアスな空気が充満してるネ!」
 その女誰ヨ!?と騒がしい神楽に、ナマエは目を丸くしていた。銀時は手を離し、めんどくせーのが帰ってきたなと頭を搔きながら説明する。
ナマエだ。俺の昔からの知り合い……ナマエ、こっちは神楽だ。ここで居候してる」
「昔からの知り合いィ!? きな臭いネ、銀ちゃんのこれアルか?」
 小指を立てた神楽の頭を、ちげーよと叩く。やり取りを見ていたナマエは笑った。ここに来て初めて見せる笑顔だった。
「ふふ、元気な子ね……神楽ちゃん、私ナマエって言うの。銀ちゃんとはただの幼なじみよ。銀ちゃんをよろしくね」
「おい!」
 戸口へと向かうナマエに声をかける。ナマエは「会えてよかった」と銀時に言うと、そのまま玄関を開けた。そして――。
「……ナマエ?」
 ちょうど銀時を訪れようとしていた桂と会ってしまった。
「小太ちゃん……」
「……元気、だったか?」
 桂がそう言った瞬間、ナマエは彼に抱きついた。
「うおっ、ナマエはヅラのこれだったアルな?」
 様子を見ていた神楽に、銀時が「あっち行って再放送でも見てろ」と命じたが「いやアル」と返ってきた。
「こっちの方が面白そうネ」
 ナマエは小太ちゃん、小太ちゃん、と存在を確かめるように、強く桂に抱きついている。桂はあやすようにその背中を摩った。
「小太ちゃん、私ね、みんな死んじゃってるんじゃないかってどこかで思ってたの……でも銀ちゃんがみんな無事だって言うから……」
 涙声で言うナマエに、桂は「すまなかった」と謝った。
「何度も、ナマエを訪ねようと思ったが……幕府のお尋ね者になり、行く機会を失っていた……」
「それはちげーだろ」
 銀時が口を挟んだ。
「ヅラ、てめーに覚悟がなかったから、行かなかったんだろ」
「なんだと……」
「……銀ちゃん、小太ちゃん。今はそんなことどうだっていいの……ただ、胸を貸して――」
 ナマエは桂の腕の中で泣き出した。泣きじゃくる彼女の頭を、桂は優しく撫でた。ナマエと同じように、桂もまた彼女に惚れていることを、銀時はその表情から悟った。
 思えば桂とナマエは、昔から互いに惹かれあっていた。桂の近所に住む農家だったナマエは、同い年の桂と仲良くなり、桂の祖母が死んだ後も自分の家で作った野菜などを親の目を盗んであげていたらしい。ナマエには頭が上がらないのだと桂は昔言っていた。
 今が礼をする時だと銀時は思う。今ナマエの気持ちに答えなくては男ではない。彼女を幸せにするのは桂の役割だった。

 ナマエが落ち着いた頃には日も暮れて、ナマエは帰るにも帰れなくなった。
「……今日は家泊まってくか?」
 ナマエが口を開くより早く、桂が反応した。
「いい歳した男女が一つ屋根の下で夜を過ごすなど断じて反対だ! ナマエ、うちに来い。エリザベスもいるから心配は要らん」
「うちにも神楽はいるんだがな……ナマエ、どうしたい?」
「私はどっちでもいいけど……その……エリザベスってどなた?」
「俺のペットだ。坂本が前に置いていった、可愛いぞー」
「気持ち悪ィペットだ」
「気持ち悪くなどない!」
 否定する桂に、ナマエはクスクスと笑った。
「じゃあ、小太ちゃんのとこにお邪魔しようかな。エリザベス見てみたいし」
 小太ちゃんは昔から可愛いものが好きだったもんね、と微笑むナマエに、桂は赤くなって「そうだな」ともごもごと言った。その様子を見て神楽がこちらに耳打ちしてくる。
「ヅラ、気持ち悪いアル。このままナマエがあいつんちに泊まったら襲われるネ、男は狼アル」
「ああ……けどそのまま襲われていいんじゃねーか? ナマエもヅラに気があるんだし……」
「ハア、だから男って嫌ネ。お互い好きだからって最初から抱かれたい女はいないヨ。そういうことはゆっくり進めるものアル」
「神楽ちゃん、どこでそんなの学んだの!?」
「おい、なんだ貴様ら、何をコソコソと……」
「何でもねェ」
 こほん、と咳をして銀時は言った。
「じゃあナマエはヅラんちに泊まるっつーことで……」
「銀ちゃん、私お腹空いたアル!」
「そうね、私何か作るわ」
 立ち上がりかけたナマエを、銀時は座らせた。
「夕飯は俺が作るからナマエはゆっくりしてろ。客人なんだから」
「……待て、俺が作る」
 代わりに桂が立ち上がる。銀時はため息をついた。
「作るっつったって、勝手もわからねーだろ? お前も座ってろ」
「そうね、銀ちゃんは器用だものね」
 桂は反論しようとしたが、ナマエの言葉で口を噤んだ。
「ってか何でお前もここで飯食おうとしてんだよ!」
「む、ナマエを俺の家に案内するためにいた方がいいだろう?」
ナマエが食い終わった頃にまた来ればいいだろーが!」
「確かに」と桂は納得したように手を打った。いちいち癇に障る野郎だ。
「ではエリザベスと外で食ってくる……八時頃また来るぞ」
「うん、またね」
「じゃあなヅラ」
「ヅラじゃない桂だ」
 ピシャと玄関の戸が閉められる。何作ろうかとあいつのせいで無駄に凝った肩を揉みながら冷蔵庫を開ける。ぱぱっとチャーハンにでもするか。ふと傍にナマエが立つ気配がした。
「手伝わなくても大丈夫?」
「大丈夫だ、それより神楽の相手してやってくれ」
 卵を持ちながらそう言えば、ナマエは素直に居間に戻って行った。しばらくしてキャッキャと楽しげな声が聞こえてくる。神楽と打ち解けたようだ。
「えっ、銀ちゃんそんなことしてたアルか!?」
「そうよー、あとは……」
 何を話しているのかは聞かないようにしよう。

 夕飯が終わり、皆でテレビを見てくつろいでいると(皿洗いはナマエがやってくれた)ガラリと玄関が開き、桂とエリザベスが入ってきた。
ナマエ、飯は食ったか?」
「うん……まあ、この方がエリザベスさん?」
『そうです』とエリザベスがプラカードを上げる。
「天人だったのね、可愛い!」
「だろう?」と桂は得意げにしている。
「いいかヅラ、ナマエに手ェ出したらただじゃおかねーカラな!」
 神楽が桂に人差し指を向け、びしっと言った。桂は「了解です、リーダー」と敬礼した。
「じゃあ行くぞ、ナマエ
「うん、銀ちゃん、神楽ちゃん、ありがとうね」
「またね、ナマエ!」
「……またな」
 今日帰ろうとしていたナマエに、明日会えるかはわからなかったが、とりあえず挨拶する。ナマエは笑顔で手を振って、桂たちと共に外へ出た。

 *

 小太郎の家は、かぶき町の外にあった。五月のあたたかい風が時折吹き、歩くには心地いい気温だった。
 彼の家が近づくにつれて、ナマエの心臓がばくばくと脈打った。軽い気持ちで小太郎の家に泊まると言ってしまったが、大丈夫だろうか。お風呂とか、寝る時とかどうしよう。小太郎がそんな人ではないとわかっているけれど、もし――。
ナマエ、どうした?」
 勝手に顔を赤らめているナマエに、小太郎は声をかけた。「何でも!」と声が大きくなってしまう。
「そうか」と小太郎は訝しがりながらも前を向いた。とんとんと後ろから肩を叩かれ振り向けば、エリザベスがプラカードを持っていた。
『大丈夫、俺もいる』
 ――えっ、男だったの!?
 ナマエは驚きながらも、ありがとうと頭を下げた。
 小太郎の住むアパートの階段を上り(定期的に引っ越しているのだそうだ)、勧められるままに靴を脱ぎ、風呂に入り、布団に潜った。
 ――何にもなかった。
 何かを期待していた自分に、なんてハレンチな!と喝を入れる。小太郎は自分の嫌がることはしない。わかっていたはずじゃないか。でもそれは、自分にとって決して嫌なことではなかった。
 襖が開き、寝巻きを着た小太郎が言う。
「俺は隣の部屋でエリザベスと寝るから、安心して寝ろ」
「……小太ちゃん」
「なんだ」
「小太ちゃんもこっちで寝て欲しいって言ったら……いや?」
「!?」
 小太郎は固まった。誤解を生んでいると気づき慌てて取り繕う。
「いや、あのね、小太ちゃんといろいろ話したいなと思って……せっかくここまで来たんだし」
「そ、そうだな、ナマエが江戸まで来てくれたんだからな」
 言うが早いか、小太郎は布団をナマエの隣に敷き、横たわった。まさかそんな早くこちらに来てくれるとは思わず、ナマエは緊張してしまう。それは小太郎と同じだったらしく、沈黙が降りた。
「…………」
「…………」
 話したいと言ったくせにこの様はなんだ、とナマエは自分を叱咤し、思い切って話し出した。
「……あのね、明日帰ろうと思うの」
「何っ」
「銀ちゃんにも小太ちゃんにも会えたし、晋ちゃんも元気でテロリストしてるって聞いたから」
「……帰って、ナマエはどうするつもりなんだ?」
「いつもと変わらず畑でも耕すよ」
「そうか……」
 帰ったらいつもの日常に戻ってしまう。今は明日のことを考えたくなくて、話を変えた。
「……私、実は結婚してたの」
「結婚?」
「そう、数年前に母さんが縁談を持ってきて……嫌だったけど受けなきゃ勘当するって言われて。ほら、うちは貧しい農家でしょ? 向こうは武家の息子でね、お金が入るかもって思ってたみたい。実際は入らなかったし、姑のいびりはひどかったし、元夫は何かと身分の差を引き合いに出すしで、耐えきれなくて離婚したの」
「……そうだったのか」
「それにね、それに……私の中でずっと小太ちゃんがいたから」
「!」
「夫が小太ちゃんだったらって、何度も考えたよ」
 小太郎はごろごろとこちらの布団に入り込んできて、それから自分を抱きしめた。心なしか、耳元で感じる息が荒い。
「なんという事だ、こんなNTRの形があるとは……」
「NTR?」
「いや、何でもない……ナマエ
「なに?」
「江戸に、住まないか?」
「えっ」
「お登勢殿に頼んで、部屋と仕事を見つけたらいい……俺にこんなことを言う資格もないと思うが、俺はナマエと共にいたい」
「小太ちゃん……」
「俺は、攘夷志士だ。幕府から狙われている人間だ。国を良くするためには命を投げ打ったっていいと思っている」
「…………」
「そんな俺と共にいればナマエにも危険が及ぶ……それでも俺はナマエといたい。ナマエを幸せにできるかはわからんが……」
 小太郎は自嘲した。ナマエはいてもたってもいられず、小太郎を強く抱きしめ返した。
「……私は小太ちゃんといるだけで幸せだよ」
ナマエ……!」
 小太郎からもぎゅうと強く抱きしめられる。
「……キスしてもいいか?」
 伺いを立てるように小太郎が言う。ナマエは顔を上げて間近にある綺麗な顔を見つめ、頷いた。目を伏せた小太郎が、唇をそっと合わせる。元夫の粗暴な口付けとは違う、慈愛に満ちた口付け。ずっと小太郎としたかった口付け。唇を離して、ナマエは赤くなっているであろう顔を隠すように下を向いた。
「……こんなやさしいキス、初めて」
「はぅ!?」
 小太郎はなぜか胸を抑えた。先程からなんだか変だ。小太郎は変の部類に入るけれど、輪をかけておかしい。
「どうしたの?」
「いや、俺の癖を的確についてくるというか、なんと言うかだな……」
 小太郎はごにょごにょと呟いたあと、こほんと一つ咳をした。
「……ナマエ、俺はもう貴様を離さん」
「うん……」
 心臓が大きく鳴っている。自分だけかと思い、小太郎の胸に耳を当てると、同じくらい大きな鼓動が聞こえてきた。その事実に知らず知らず口角が上がる。
 遠回りをしたけれど、ようやく小太郎と結ばれた。これからどうなるかはわからない。小太郎の言う通り、自分にも危険が及ぶかもしれない。けれど今は、彼と一緒にいられる幸せを噛み締めたかった。