あいしてるのひとつ前の吐息

「……あ、坂田さん」
目の端に映った、銀色の髪に隣を向けば、「おう」と坂田さんは座りながらゆるく手を挙げた。私はうるさく鳴り出した心臓の音に聞こえないふりをして、余裕があるように微笑む。こんな風に、好意を気づかれないように振る舞うようになってから、どのくらい経っただろう。
「おっさん、俺ビールね……今日も一人で飲んでたのか?」
「うん」と頷くと、「よっぽど酒が好きなんだな」と坂田さんは言う。表面上はそういう事になっているけれど、本当は違う。
「にしても、酒好きがこんなやっすい居酒屋で飲んで楽しいかね?」
「楽しいよ。料理は美味しいし、主人のおじさんもよくしてくれるし」
ね、とカウンターからおじさんに声をかけると、おじさんは「そう言ってもらえると嬉しいねえ」と眦を垂れた。
「確かに料理は美味ェが、このおっさんが良くするのは下心があっからだよ。ね、おじさん」
「誰が下心だ!! ビール出さねェぞ!!」
「いや、今のは冗談だって、冗談」
おじさんが怒りながら、ビールをドンと坂田さんの前に置いた。坂田さんが持ち上げたジョッキに、私のジョッキを合わせる。
「かんぱーい」
坂田さんと一緒に、ビールを飲む。本当は、ビールはお腹に溜まるから違うものを飲みたいのだけれど、坂田さんの一杯目はビールと決まっているから、彼が来るまではビールを飲むことにしている。
坂田さんは豪快に飲み干して、ぷはーと息を吐いた。
「やっぱ仕事終わりのビールは最高だな! 骨の髄に染みるわー」
「ふふ、そだね……私日本酒いくけど、坂田さんはどうする?」
「おっ、さすが酒豪! 俺も飲んじゃおっかなー」
「じゃあおじさん、とりあえず銀酒一合とお猪口二つ! あと刺身も追加で」
「はいよ!」
「日本酒はいいんだけど二日酔い酷いんだよな、最近。歳なんて取るもんじゃねーな」
「水もちゃんと飲まないとダメだよ、弱いのにお酒ばっか飲むから……」
「別に俺は弱くねェよ? ただ、酒飲みに来たのに水は飲みたくねェ」
そう言う坂田さんの顔は赤い。もう酔い始めている。可愛いな、と思いながらその横顔を見つめた。

日本酒を四合飲んだ頃には、坂田さんはべろべろに酔ってしまった。
「相変わらずお酒強いねえ」
私は笑いながら坂田さんの分もお勘定して、彼を抱えて店を出る。
「……すまねェな、後で金は返すから」
「いいよ、私は好きで坂田さんと飲んでるんだから」
酔っている坂田さんは、翌日にはきっとほとんど覚えていない。だからいつも、坂田さんが酔った時だけ本音が言える。
人通りの少ない夜道を、私の肩に彼の腕を回すようにして歩く。少しだけこちらに体重をかけているから、重みを感じる。私はこの重さが好きだ。かぶき町の人気者で、皆を護ることに重きを置いている坂田さんが、その責を何とも思っていなさそうな坂田さんが、私に弱さを預けてくれている気がして。
万事屋の場所は知っている。それというのも、私の家の向かいだからだ。私は坂田さんが一人で万事屋をやり始めた頃から、彼を知っている。
「……なァ」
「ん?」
「なんで俺のこと苗字で呼ぶんだ?」
私は驚いて坂田さんを見上げた。彼は赤い顔をしていたけれど、真剣な顔をしていた。えーと、と困って言葉を探す。
「別に、意味はないよ。坂田さんがしっくりきただけ」
本当は違う。皆が呼ぶように、彼を名前で呼んでしまったら、もうこの気持ちを取り繕えないと知っているから。自分にブレーキをかけるために、私は坂田さんと呼んでいる。
「ふーん……じゃあ今、名前で呼んでくれねーか?」
「え?」
彼の目は真っ直ぐで、私は逃げ場がなかった。口を開いて、呟くように言う。
「……銀、さん」
「……ちゃんと言って」
優しい声に、私は泣きそうになりながら呼ぶ。
「……銀時」
瞬間、私は抱きしめられた。
「あーもー、その顔反則だろ……! 今まで抑えてたけどもう我慢できねェ」
「えっ?」
どうして彼の腕の中にいるのか。理解できず見上げると、彼はじっとこちらを見下ろしていた。耳まで赤くした顔は、きっとお酒のせいだけじゃない。
「……なァ、俺がお前のこと好きだっつったらどーする?」
「え? え、どういうこと?」
「そのまんまの意味だよ」
私のことが好き? あの坂田さんが? 皆に頼られてて、好かれてて、でも誰のものでもない坂田さんが、私のことが好き?
夢のようだった。夢ならば私も素直になろう。そう思って口を開く。
「……嬉しい。すごく、嬉しい。私も、坂田さんが好きだから」
坂田さんは微笑んだ。柔らかい笑みだった。
「だと思ったよ……なんか俺ら、すげー遠回りしてたな」
「うん……」
「キス、していい?」
頷いた私に、坂田さんの顔がもっと近づく。私の唇に目を落とした坂田さんの顔は、今まで見たことのない男の顔をしていた。初めて見る一面。これからも私の知らない一面を見ることができるんだ。私はそのことに幸せを感じながら、目を閉じた。