劣化する筆跡

 そのくたびれた教科書は、図書館の隅に落ちていた。上級魔法薬。ナマエたち六年生が使っている教科書だ。
 指になじむ柔らかいページを捲ってみる。活字と同じくらいの細かな字が余白を埋めていた。材料や方法なども、二重線で引かれ訂正されている。この教科書の持ち主は、研究熱心な人らしい。名前がないかと後ろを捲ると、裏表紙の下の方に小さく書かれていた。
「半純血のプリンス蔵書……?」
 マダム・ピンスの咳払いが聞こえた。ナマエはそれを鞄にしまい込み、図書館を出た。
 夕食後、皆がくつろぐ談話室で、ナマエはじっくりとその教科書を読んだ。小さな字は薬を混ぜる回数ややり方を訂正するだけでなく、知らない呪文も端書きで書かれていた。「レビコーパス(無)」「セクタムセンプラ(敵に対して)」「マフリアート(耳塞ぎ)」――
「何を読んでるの?」
 ナマエと同じ青いタイの少女――レイチェルに話しかけられた。ナマエはとっさに教科書を閉じた。プリンスのことは、自分だけの秘密にしたかった。
「……上級魔法薬よ」
「そう?」
 向かいに座ったレイチェルは、幸い深くは聞いてこなかった。
「魔法薬学のレポートがまだ終わってないの。やった?」
「今やってるところ。一巻きは終わったから、見せてあげる?」
「いいの? ありがとう!」
 さすが薬学得意なだけあるわ、と褒められる。
「……得意じゃないわ、生ける屍の水薬も満足に作れなかったし」
「でもスラグホーンに褒められてたじゃない」
 もっと褒められていたスリザリン生がいただろう。そう言いたかったが、言葉を飲んで微笑んだ。
 ナマエはそれから談話室で教科書を読むのをやめ、自分の寮で読むようになった。例えば眠れない夜や早く起きた朝方などに、窓際でひっそりと読んだ。
 読めば読むほど、その神経質そうな小さな字に夢中になった。プリンスと名乗る同級生は、薬学が得意で、呪文も開発できるほど聡明な人物なのだと妄想した――書かれている呪文は図書館で調べても出てこなかった。
 いくつかその呪文も試してみた。レビコーパスを試した時は大変なことになったが(同室で眠るレイチェルを宙ずりにしてしまった)、便利な呪文もあった。
 プリンスは一体誰なのだろう。ナマエはたびたび教科書を抱えて思いを馳せた。同級生でこんなに薬学ができる人というと限られてくる。グリフィンドールのリリーとか、ハッフルパフのキルシュとか、あとは――。
 とあるスリザリン生が思い浮かび、ナマエはすぐにかき消した。違う。彼がプリンスだなんて、思いたくない。自分たちマグル生まれを差別するような人を。
 しかし、結果として一番プリンスと思いたくない人物が、プリンスだった。次の週の魔法薬学の授業で、その人物は手を挙げたのだ。
「どうした、セブルス?」
「すみません、教科書をどこかになくしてしまって、お借りしたいのですが……」
「おや、そうしたら買うまでこれを使うといい」
 スラグホーンは戸棚から古い教科書を取り、スネイプに渡した。「ありがとうございます」と呟くように言ったスネイプは、教科書を開き、秤の準備を始めた。
「……ナマエ?」
 その様子を見ていると、向かいにいたリリーに声をかけられる。ナマエははっとして、手を動かした。ニワヤナギを切っていく。今日の課題はポリジュース薬だった。
「ぼんやりして、どうしたの?」
 リリーはまだ心配しているようだった。
「……なんでもないの」
 ナマエはそう言って口角を上げた。うまく笑えている自信はなかった。プリンスはスネイプだった。その事実に心が揺れた。
 教科書を返さなければ、と思う反面、気が重かった。スネイプと口を利くこともこわかった。穢れた血、と罵られることがこわくてたまらなかった。
 授業が終わり、皆が教室を出ていく。リリーに手を振り、レイチェルには「先に行ってて」と伝えた。スリザリンのテーブルを見ると、マルシベールたちはおらず、スネイプが一人で自分の器具を片付けていた。声をかけるなら今しかない。ナマエは足を無理やり動かして、スネイプに近づいた。鞄から教科書を取り出す。
「……これ、あなたの?」
「……そうだ」
 スネイプはひったくるように教科書を取った。ナマエの胸に悲しみが広がる。
「どうして、そんなふうに取るの? 私が……穢れた血だから?」
 スネイプはぴくりと反応した。
「……違う。僕の前でその言葉を使うな」
 そう言って、スネイプは教室を去っていった。残されたナマエは、彼の反応を意外に思った。スネイプといえば、彼の仲間たちとともにマグル生まれを罵る、純血主義者というイメージしかなかった。
ナマエ? 次の授業始まるんじゃないかね?」
 材料庫から戻ってきたスラグホーンの言葉に、ナマエはバタバタと自分の器具を片付け、「さよなら」と教室を出た。

 それからナマエはスネイプを目で追うことが多くなった。
 彼はデスイーター仲間とつるんでいたが、彼らと一緒になって「穢れた血」と罵る姿は見せなかった。一体何があったのだろう。少なくとも去年までは平気で差別していたはずだった。
 ジェームズ・ポッターやシリウス・ブラックと攻撃し合うところもよく見た。二対一なのでスネイプがやられている方が多かった。ナマエは助けることはせず、静観した。仲がいいわけではなかったし、スネイプの場合、助けられることを望んでいないと思ったからだ。
 彼を観察するうち、わかったことがある。それはその視線の先には、必ずリリーがいるということだ。大広間で食事している時や、合同授業の中で、スネイプはリリーを見ていることが多い。
 リリーはグリフィンドールの子だ。ナマエと同じ監督生で、最近仲良くなった。美人で明るくて、少し気が強いけれど性格もいい。ジェームズ・ポッターがリリーを好きなことは、学校中の皆が知っている。スネイプもリリーを好きだったら? 行き着いた仮定に、ナマエは動揺した。どうして自分が動揺しているのか、よくわからなかった。
 ある日、ナマエが宿題のために図書館へ行くと、試験が近いためか、珍しくテーブルは人で埋まっていた。仕方なく空いているところを探す。隅のひっそりとしたテーブルが一席空いていた。
 ただ問題があるとすれば、向かいに座っているのがスネイプだということだった。ナマエは迷ったが、どうしても図書を確認したかったため、座ることにした。緊張しながら腰を下ろすと、スネイプはこちらに目をやった。しかし何も言わず、また席を移動することもせず、再び羊皮紙へ視線を落とした。ナマエはほっとして、本を開いた。
 カリカリと、羽根ペンの先が羊皮紙を引っ掻く音が聞こえてくる。どのくらい時間が経っただろう。宿題を終え、ある程度勉強もしたナマエは時計を見上げた。20時半。そろそろ談話室に戻らなければ。周りはスネイプと自分以外、誰もいなかった。
 スネイプはというと、本を見ながら、羊皮紙に小さく文字を書いている。その文字を見て、本当にこの人がプリンスだったのだなとナマエはぼんやりと思う。
「……なんだ」
 視線を感じたらしく、スネイプが顔を上げた。何でもないと目を伏せることもできたが、ナマエはそうしなかった。スネイプと少し話がしてみたいと思ってしまったのだった。
「……あなたの字、綺麗だなと思って」
 スネイプは眉を寄せ、また羊皮紙へ目を戻した。無反応か。彼の反応に期待していたわけではないので、特に何も思わなかった。ナマエは本を閉じて片付けを始めた。
 羊皮紙を巻いて留めたところで、スネイプが言った。
「……君が僕を見ていることは知ってる」
 ナマエは驚いてスネイプを見た。スネイプは羊皮紙に目を落としたまま言葉を続けた。
「何を企んでる?」
「……何も企んでないわ。ただ、あなたが――」
 何と答えればいいだろう。マグル生まれを差別しなくなった理由が知りたかったから? 違う。単純にスネイプが気になったからだ。
 自然と浮かんできた答えに、ナマエは愕然とした。スネイプは苛立ったように顔を上げた。
「僕が、なんだ」
「……何でもない」
 スネイプは鼻を鳴らした。
「とにかく、もう僕のことは見るな」
「わかった……」
 本を重ねて立ち上がる。もうスネイプとはこれきり話さない予感があった。ナマエは去り際に言った。
「……あなたの魔法、とってもよかった」
 プリンスが誰かわかったら、伝えたかった言葉だった。驚いているスネイプに微笑み、ナマエはその場を去った。
 西塔に向けて、誰もいない廊下を歩く。肖像画の囁き声も聞こえず、辺りはしんとしている。
 この静けさが続けばいいのに、とナマエは思った。今の気持ちのまま、皆のいる談話室に行くのは少し気が引けた。
 恋と呼ぶには幼すぎる感情の芽は、摘み取られてしまった。何かを失ったような、そんな寂しい気持ちを抱えながら、ナマエはゆっくりと歩を進めた。

 リリーとジェームズ・ポッターが例のあの人に殺され、その息子ハリーがあの人に打ち勝った。
 ナマエがそのニュースを見たのは、ハロウィーンの次の日の朝だった。魔法界と繋がる唯一の手段、日刊予言者新聞の一面に書かれたニュースに、ナマエは驚き、同時に悲しんだ。例のあの人がいなくなったことへの喜びよりも、リリーが亡くなったことへの悲しみが強かった。きっと彼女はハリーを守ろうとした。最後まで抵抗しただろう――。
 リリーもジェームズ・ポッターも、オーラーとしての道を選んだ。反対にナマエは、マグルとして生きていくことを選択した。例のあの人のことを考えたくなかったし、何よりマグル生まれやマグルを差別する風潮が嫌で仕方がなかった。フリットウィック先生には何度も引き止められたが、ナマエの意思は固かった。
 新聞を読み終わり、窓の外をぼんやりと見つめる。忙しげなマグルに紛れて、黒のローブを着た魔法使いが幾人も通りを歩いていた。本来であれば姿を隠さなければならないが、例のあの人がいなくなった喜びを抑えきれないのだろう。笑い声が聞こえてくる。きっとダイアゴン横丁はお祭り騒ぎだ。
 祝福する気もせず眺めていると、ふと、黒い影がアパートの壁際に屈んでいるのが見えた。通り過ぎるマグルたちは怪訝そうに彼を見ている。黒のマントに長い黒髪を持ったその男は、どこか見覚えがあった。ナマエは外に飛び出した。
「……スネイプ?」
 呼びかけるとその男はこちらを向いた。痩せた頬に大きな鉤鼻――やはりスネイプだった。
「……ミョウジか?」
 学生時代に名乗った覚えもなかったが、彼は自分の名前を知っていた。ナマエはスネイプの顔色が悪いことに気づいた。息を切らす彼の額に手をやる。
「……酷い熱。立てる? 私の家がすぐそこなの」
 彼の肩を組んでゆっくりと起こせば、彼の体重がのしかかる。
「……すまない」
「大丈夫……」
 ナマエは自宅へと彼を連れていき、自分のベッドに寝かせた。すぐにタオルを冷やし、彼の額に乗せる。体温計で測れば40度近く熱があった。生憎この家には魔法薬はなく、マグルの風邪薬を飲ませる。
 しばらくすると薬の効果が出てきたのか、スネイプは眠りに就いたようだった。ナマエはベッドの傍に椅子を置いて座り、彼の額の汗をそっと拭った。
「……リリー」
 彼の寝言に、ナマエは手を止めた。デスイーターになったと噂で聞き、彼女への想いもなくなったのかと思っていたが、ずっと想い続けていたのだろうか。ナマエは複雑な気持ちになった。リリーが死に、彼はどれほど絶望しただろう。脂っぽい頭を優しく撫でれば、眉間に刻まれた皺は少し薄くなった気がした。

 ナマエははっと目を覚ました。いつの間にか自分も眠っていたらしい。
 ベッドにいたはずのスネイプの姿はなく、立ち上がろうとして、黒のマントが掛けられていることに気づいた。スネイプのマントだ。マントを持って立つと、テーブルの上に書き置きがあることに気づいた。
「ありがとう」と一言だけ、小さく書かれていた。あたたかい感情が広がる。スネイプへの想いが、また芽生え始めるのを感じた。

 ホグワーツの事務員にならないかと打診が来たのは、それから少し経った頃だった。
 ダンブルドア校長の直々の来訪に驚いたが、ナマエにとっては願ってもない話だった。亡くなった両親の遺産を細々と使い、たまにパートとして働いていたナマエは、例のあの人がいなくなってから、平和な魔法界に戻ることを考えていた。ダンブルドアは思っていた以上に、自分のことを気にかけてくれていたのだ。二つ返事で了承したナマエは、早速来月からホグワーツで働くこととなった。
「今日から勤めます、ナマエミョウジです。よろしくお願いいたします」
 教員室にて挨拶すれば、拍手が起こった。スネイプを除いて皆にこやかだったが、特にフリットウィックは嬉しくて仕方がないというふうに大きく手を叩いていた。ナマエもまた笑みを返した。
ナマエにはこれから備品購入などの事務をやってもらう。用があれば彼女に言うように。以上じゃ」
 ダンブルドアの紹介が終わり、真っ先にフリットウィックがナマエの元に来た。
ナマエ! 君がこういう形でホグワーツに戻ってきてくれたこと、すごく嬉しいよ。君という優秀な生徒がマグルの世界に戻るなんて勿体ないと思っていた――」
「……ありがとうございます。すべてダンブルドア校長のおかげです」
 うんうん、と彼は頷く。
「校長に進言したのは、実は私なんだ。ずっと君のことが気がかりでね」
「そうだったんですか! 本当に、ありがとうございます」
 お辞儀すると、フリットウィックは「そんな、いいんだよ」と手を振った。
「何にせよ、君と仕事できるのが嬉しいよ。よろしく」
「よろしくお願いします」
 握手すると、フリットウィックは教員室を出て行った。自分も部屋に戻ろうかと思ったところで、ふと視線を感じた。スネイプが感情の読めない目でこちらを見ていた。ナマエはスネイプに近づいた。
「……熱はあれから下がったの?」
「ああ……君のおかげだ、マグルの薬も効くものだな」
「それはよかった……でも、どうしてあんなところにいたの?」
 ずっと疑問に思っていたことだった。スネイプは言った。
「……少し、魔法界から離れたくてな。朝から具合が悪かったが、外の空気を吸いたかった。まさか高熱が出るとは思わなかったが」
「……私の家の近くでよかったわ。そうだ」
 拡張魔法のかかった鞄を探り、畳まれたマントを取り出した。
「これ、ずっとあなたに返したかったの」
 スネイプは無言でマントを受け取った。
「一応洗濯したんだけど、もし柔軟剤の匂いがキツかったらごめんなさい」
「大丈夫だ……」
 スネイプの言葉にほっとする。
「……明日」
 マントに目を落としながら、彼は言った。
「夕食後に私の部屋まで来い。一度材料庫を改めたい」
「わかった」

 次の日の夕食後、ナマエはスネイプの部屋にやってきた。ノックをして名乗れば扉が開く。
「……業後にすまない。授業があるからこの時間でなければならなかった」
「私はいつでも大丈夫」と、にこやかに言えば、スネイプは目を逸らした。
 倉庫につき、羊皮紙とペンを渡される。
「これに材料名と個数を書いて言ってくれ。私はこの半分を見るから、君はそっちを頼む」
「はい」
 言われたとおり、一つずつ材料を見ていく。中には知らないものもあり、スネイプに尋ねながら仕事を進めた。
 バイコーンの角の数を数え終わると、さらに上の棚にも材料があることに気づく。近くのハシゴを使って登ったのはいいが、問題はその後だった。ヒールがハシゴにひっかかり、体重を後ろにかけてしまった。
「きゃっ!」
 落ちる、と目を瞑るも、衝撃は軽かった。目を開けると真っ黒のマントと、至近距離にあるスネイプの顔があった。抱きかかえられている。気づくと同時に顔に熱が集まる。
「……そんな目で私を見るな」
 羞恥と喜びに目を潤ませていると、スネイプは眉をひそめて言った。そのまま床に下ろされる。
「えっ?」
「君は、昔からそうだった。いつも熱のこもった目をしていた……」
 スネイプはこちらを見ずに言った。
 気づかれていたのか、とナマエは驚くと同時に恥ずかしくなった。自分の恋心まで知られていたのか。よりによって、一番知られたくない相手に。
「ご、ごめんなさい……」
 思わず謝る。スネイプは振り返った。
「なぜ謝る?」
「私の気持ちは、あなたには邪魔でしかないと思って」
 スネイプは後にも先にもリリーしか見ていない。
「……確かに私は、君以外の者に想いを寄せている」
 スネイプは囁くように言った。
「しかし、邪魔とは思わない」
 ナマエははっとスネイプを見た。彼は苦しそうに眉を寄せていた。
「君の好意をどこか、心地よく思う自分がいる……君の愛を甘受することができればどんなにいいかと、思うときもある」
「スネイプ……」
「それは愛ではない。言い方は悪いが――妥協だ。受け入れてしまえば、君の尊厳を踏みにじることになる」
 ナマエは一歩スネイプに近づいた。そして手を伸ばしてその頬に触れる。黒の眼には何の感情も浮かんでいない。
「私は、それでもいい。あなたがリリーしか見てなくても、構わない。妥協でもいいから――」
「それはならん」
 スネイプはナマエの手をそっと取り、頬から離させた。
「君がよくても、私がそれを許さない。そんな関係は何も生み出さない――愛がなければいずれは破綻する」
「……わかった」
 スネイプの意志は固かった。にじみ出す涙を隠すように、スネイプの胸元に頬を寄せる。
「これだけは許して」
 自分の想いは、どうあがいてもスネイプは受け入れない。その事実に涙が浮かんでくる。泣いてもスネイプを困らせるだけだとわかっていても、止める術はなかった。
 しゃくりあげるナマエの背中に、痩せた腕がぎこちなく回った。彼の体温を感じるのも、これが最初で最後だろうと、ナマエは他人事のように思った。