翌日の朝、ナナは四日ぶりに自宅へ戻った。声が出るまで療養ということで、学校はもちろん、外にも出られない。退屈になるだろうなとナナは思っていたが、それは大きな間違いとなる。

 自宅前で妻と娘を降ろしたあと、父はそのまま仕事に行き、ナナは母と一緒に遅い朝食をとっていた。平日の10時代ということで、テレビは主婦向けの通販番組しかやってない。諦めてチャンネルを回すのをやめ、スチームクリーマーの性能をこれでもかと述べる声を聞き流しながら、ナナは蜂蜜のかかったヨーグルトを 口に入れた。喉に負担をかけないために、母が出してくれたもの。いつもはご飯なので少し物足りない。
 ふと、テレビの音に混じって、外からブレーキ音とドアを開ける音が聞こえてきた。向かいに座る母と目を合わせれば、「宅急便かしら」と不思議そうに言う。やがてピンポンとベルが鳴らされ、母は慌てて箸を置き、返事をしながら玄関へ向かっていった。

 (あれ、また判子忘れてる…)

 棚の上の小物入れにある判子を取らずに行ったようだ。ちょっと抜けてるよなあと思いながらまたヨーグルトを掬えば、母のいやに高い外向きの声が耳に入ってきた。

 (月先生が来てくれたのかな…?)

 だとしたら、顔を出さないと。ちらと自分の服装を確認し、大丈夫だと判断してスプーンを置く。そして椅子から立ち上がろうとしたが、その前に二つのスリッパ音がこちらに向かってきた。まさか、母の薦めで家に上がってしまったのだろうか。緊張しながら振り返るナナの視線の先でドアが開く。母の大層機嫌の良さそうな顔が目に入ってきた。

ナナ、竜崎くんが来てくれたわよ」
「!?」
「おはようございます、ナナさん。お邪魔します」

 その後ろから平然と挨拶する、予期してなかった人物に、ナナは目を丸くする。本人は固まるナナを気にすることなく、勧められるまま隣の席に座った。母は病院でこの特有の座り方を見ていたのか、特に反応せず尋ねた。

「竜崎くん、ご飯はもう食べた?」
「………いえ、まだ食べてません」
「あら、じゃあ食べていって。粗末なものしかないけれど」

 母はすぐさまキッチンから盆を持ってきて、竜崎の前に置く。断るかと思いきや、彼は「すみません、いただきます」と言って、悠々とご飯を食べ始めた。客用の長い箸を使う手は、意外にも手慣れていて、使い方も上手い。

 (お菓子以外のものも食べられるんだ……って、そうじゃない!)

 すぐに手元に置いたメモを取り、ペンを走らせる。

 『どうしてここに来たの? 仕事は? 学校はどうしたの?』

 そう書いて見せると、竜崎はキュウリの浅漬けをポリポリ噛みながら何食わぬ顔で答えた。

ナナさんの様子を見に来ました。仕事は昨日片付けましたし、学校に行っても読む本がなくて暇なので」
「ふふ、ナナも退屈でしょうから、好きなだけここにいなさいな」

 母がにこにこと言った提案に、竜崎は「ありがとうございます」と頷く。

 (どのくらいいるつもりなんだろ…というか、母さん機嫌良すぎる……)

 娘の命を救った恩人だからか、母は黙々と箸を動かす竜崎を見て、穏やかに目を細めている。一日経った今日、彼の前で泣いたことを恥ずかしく思い、学校でどんな風に接すればいいんだろうとひそかに悩んでいたのに、まさか今日顔を合わせるとは―――それでも、心配して来てくれたことへの嬉しさがまさる。あたたか い感情にまかせ、ナナはまたペンを動かす。

 『じゃあ、チェスの勝ち方教えてね』

 微笑みながらメモを見せると、竜崎は箸を止め、柔らかく頷きを返した。





 それから毎日竜崎は家に来て、筆談相手になったり、チェスの相手(勝ち方を教えてくれているのに、いつまでも勝てない)をしてくれたりした。母の提案通り、 彼は朝から晩までいて、出されたご飯(昼と夜)もきちんと食べていた。それでもやはり甘いものの方が好きらしく、ナナが作ったお菓子(作っている間、彼は つまみ食いしかしなかった)を食べているときは、料理を食べているときより、ほんの少し機嫌が良さそうに見えた。
 夕方には粧裕やミサたちが訪れ、 話をしたり、試験範囲のわからないところをナナが教えたりした。竜崎はそれを傍観しているだけだったが、一度海砂に教えを乞われ、勉強を見たことがある。そのとき彼はいつまでも飲み込めない海砂を遠回しに馬鹿にして、怒らせていた(それ以来、誰も見てもらおうとはしなかった)。

 竜崎と過ごすのは楽しく、知らない一面を見ることもできて嬉しかった。でも、話せないことがいつも心に引っ掛かっていた。
 恐怖心をすべて涙として流したあとは、大分気分が落ち着き、竜崎もあれから事件について何も触れない。でもこうして家に来てくれるのは、少なくとも罪悪感があるからだろう。
 早く彼を安心させたい。「ありがとう」と、声に出してお礼を言いたい。薬を飲み始めてから、喉の違和感は日に日に薄れてきている。
 声を出してみようと思ったのは、目覚めてからちょうど一週間が経った日のことだった。

 夕飯を食べたあと、竜崎を見送りに、すっかり暗くなった外へ出たとき。
 門のところで止まっているリムジンの手前で、「また明日」と振り向く彼に、いつも通り手を振ろうとして、やめた。代わりに口を開き、少し息を吸う。

「……じゃあね」

 声は自然に発せられた。それは小さく掠れていたが、竜崎は驚きの色を見せる。そして、目元を少し緩ませた。

「そろそろだと思ってました……違和感はもうありませんか?」
「うん…」

 頷くと、彼は「よかったです」と安堵したように薄く微笑む。
 七日間、ずっと見たかった表情。
 ほっとすると同時に、切なくなるような愛しさが込み上げてくる。

 気づけば一歩近づいて、手を伸ばしていた。

「……ナナさん?」

 長袖の裾を軽く握る。少したるんでいるのは、姿勢が悪いから。
 見上げると、黒い瞳がかすかに揺れた。彼を動揺させていることに頬が緩む。
 もっと見たい。もっと知りたい。もっと、彼の考えていることを、感情を、わたしが表に引き出したい。

 思うままに動いていた。
 広い肩にそっと両手を乗せ、つま先で立ち頬に唇を寄せる。
 静寂を、軽いリップ音が破った。滑らかな頬からゆっくりと顔を離せば、至近距離で目が合う。
 驚きと戸惑い。
 満足したナナは、感謝と、愛おしさを込めて微笑む。

「……ありがとう、竜崎」


20130826
終わり
ここでようやく向き合う