夕陽がだんだん鈍くなり、窓の向こうが夜に染まってきた頃。ナナは誰もいない教室で、大きく伸びをした。
「終わったー…」
日本史の課題をやってくるのを忘れたナナは、今日中にやって提出するよう言われていたのだ。模木先生は無口だけれど、厳しいところもある。
外からはサッカー部や野球部員たちの張り上げる声が聞こえてきていた。開放感に浸りながら、ナナは提出後に部活へ行こうと立ち上がる。ついでに本も返しに行こうかと机脇に下がったトートバッグを見た。
(……読んだら自分で本を返せるように、これからは竜崎くんの貸出カードで借りようか)
トートバッグとラケットを持ちながら考えるのは、隣の席の転校生のこと。登校して二時間もしないうちに帰るという、竜崎の衝撃的なデビューから一週間が経っていた。
あれからは本調達係りとして気に入られたらしく、よく話し掛けられ、仲良くなった…とナナは思う。
こ の一週間隣にいてわかったのは、彼は甘党で、とても頭が良いと同時に協調性が全くないということだ。 授業中や休み時間一切関係なしにお菓子を食べ、また授業が退屈と言うだけあって、難しい問いにもスラスラ答えてしまう(教師たちは彼に何故か難問ばかり指す)。実技科目では、情報の授業中に学校のセキュリティを突破し、校内の教師や生徒の個人情報を暇潰しに見ていたり(ペンバー先生は驚いていた)、音楽の 授業では一度も口を開かなかったり(授業に来ただけ褒めてもらいたいらしい)など、好き勝手に行動していた。
そんな、良く言えば自由で賢い彼を間近で見ていたナナは、竜崎にできないことはないんじゃないかと思いつつある。
(とりあえず明日、貸出カードを使っていいか聞いてみよう――いや、その前に自分で本を借りてほしいんだけど…)
一度、なぜ自分で借りないのか聞けば、自分では選ばないジャンルの本が読めて新鮮だからだと答えた。本といえば、専門書や有名な文学くらいしか読まないのだそうだ。
それを思い出しながら、ナナは電気を消し、教室から出ようとした。が、それはいきなりぬっと現れた影に阻まれる。顔を上げれば、サングラスを掛けたゴツい男がニヤリと口角を上げていた。ナナはぎょっとして後ずさる。
(渋井丸拓男……!)
――渋井丸拓男(略してシブタク)は、その学力、素行の悪さから、何度も留年を重ねている生徒だ。彼がどうやってこの偏差値の非常に高い新神高校に入学したのか、何故退学にならないのか…その謎は七不思議の一つとなっている。
危険を察知した彼女は周りを見るが、当然二人以外誰もいない。危機的状況だ。
冷や汗がにじみ出すナナに、渋井丸拓男は顔に似合わず甲高く、ぞっとするような声で話しだした。
「お嬢ちゃん、かわいいね~。今から俺と…」
「い、今から部活がありますので…!」
関わりたくないナナはきっぱり断り、脇をすりぬけようとするが、後ろからガシリと腕を捕まれ絶望する。
「あー待って待って、嬢ちゃん。竜崎ってヤツがここにいるって聞いたんだけど、知らない?」
(竜崎くん…?)
彼に学校一の不良が何の用だと思いながら、一応事実を伝えようと振り向いた。
「あの…とっくに帰ったと思います」
「え、マジで?」
渋井丸はポカンと固まる。掴んでいた力がゆるんだことに気づいたナナは抜け出そうと腕を引くが、すぐにまた力強く握られ、逆に引っぱられてしまった。
「まあまあ、嬢ちゃん。ついでにちょっと付き合ってよー」
「いやっ、離して!」
ニタニタと下卑た笑いを浮かべながら、廊下へと連れ出され、ナナは本気で焦りだす。振りほどけない武骨な手に、涙を浮かべ始めたその時。渋井丸の前に、長身の男が立ちふさがった。
「…やめないか」
クラスメイトの魅上だった。
「…ああん? 何だテメーは」
「生徒会副会長の魅上だ。彼女が嫌がっているだろう、手を離せ」
「チッ」
魅上の毅然とした態度に調子が狂ったのか、渋井丸は舌打ちをし、不満げに足音を鳴らして去っていく。解放されたナナはほっと息をつき、渋井丸の後ろ姿を眼鏡越しに睨むクラスメイトを見上げた。
「…ありがとう」
「……いや」
魅上はそっけなく答えたが、ナナは気にしなかった。この高校で8年ぶりに再会した魅上は、大人びたこと以外、何も変わっていない。困っている人がいれば無条件で手を差し伸べる彼の姿勢に、昔も今も尊敬している。
ふと、ナナは自分の用を思い出した。
「魅上くん、今、何時かわかる?」
魅上は自分の腕時計を見る。
「17時31分だが」
「え、ヤバい早く行かないと…魅上くん、ホントにありがとう! じゃあねっ」
魅上に手を振り、ナナは黄昏が滲み出す廊下を駆けていく。夕闇の中へ消えていく彼女の背中を見送って、残された魅上はひとり、呟いた。
「…廊下は走らないように」
*
翌朝、登校して来たナナは、皆に挨拶しながら教室の中を進み、飴を舐めながら本を読む竜崎の姿を見つけた。もう彼の座り方やその他もろもろに驚かないくらいになってきている。慣れってこわい。
「おはよう、竜崎くん」
「おはようございます」
挨拶して席に着いたナナは、昨日渋井丸が言っていたことを思い出し、問い掛けてみる。
「…ねえ、昨日渋井丸拓男と何かあったの?」
竜崎は本から顔を上げてナナを見た。
「…しぶいまるたくお?」
「えっ、一年で留年ばっかりしてる先輩だけど、知らない?」
「知りませんね…私の事で、何か言ってましたか?」
「うん、竜崎はいるかって聞かれたよ。いないって答えた後も腕離してくれなくて、大変だった。魅上くんがいなかったら…」
ナナは昨日の恐怖を思い出し、かすかに顔をくもらせた。その様子を見て、竜崎はぼんやりと親指を口元に当てる。それから、「ああ」と思い出したように頷いた。
「すみません、巻き込んでしまいました。昨日、放課後体育館裏に来いと書かれた紙が下駄箱に入っていたんですが、無視して帰ったんです」
竜崎に呼び出しという、何だかイメージできない組み合わせに、ナナは驚く。
「え、呼び出されてたの?」
「はい、まったく身に覚えはありませんが」
「うーん……制服はだぼだぼだし、勝手に早退するしで、目付けられたんじゃない?」
「窮屈な服は嫌いですし、ちゃんと許可は出てます…それにしても、すごい察知能力ですね。私、まだここに来て七日ほどしか経ってない気がします」
「多分、そういう生徒見つけてボコボコにするくらいしか、楽しみないんだと思うよ、ああいう人は」
「…毒舌ですね」
「だって連れさられそうになったんだもの」
ふいと顔をそらせば、竜崎はすみませんとまた謝ってくる。ナナが笑いながら再び隣を向いたところで、戸がサッシにぶつかる大きな音がした。驚いて戸口を見ると、がたいのいい三人の男が仁王立ちしている。
真ん中に立つサングラスの男、渋井丸拓男が口を開いた。
「竜崎って奴はいるかー?」
「はい」
私ですとばかりに、竜崎がひょいと手を挙げる。そして「こっちに来い」という渋井丸の命令に、躊躇せず従った。ナナが焦って名前を呼ぶが、竜崎はこちらを見ようとしない。クラスメイトたちは、驚いた顔で戸口を見つめていた。
「何ですか?」
「今からちょっと顔貸してくんない?」
ニヤニヤしながらそう言った渋井丸に、竜崎は「いいですよ」とすんなり頷く。予想外の反応に渋井丸は呆気に取られたようだったが、すぐにガシリと襟元を掴み 前に引っ張った。抵抗もせず、すたすたと三人に拉致られて行く竜崎の背中を呆然と見ていたナナは、我に返って立ち上がる。
「えっ、ちょっと…魅上くん止めないの?」
連中を丸きり無視して机に向かっていた魅上は、ナナを一瞥すると、また目を戻して言った。
「……規則を破った罰、彼の自業自得だ」
「な…!」
血も涙もない言葉に、ガツンと頭を殴られたようなショックを受ける。校則を破っただけで、竜崎を渋井丸と同義の悪と見なすのか。助けなくていい存在になるのか。ナナはその背中をキッと睨み、彼と同じ学級委員の高田に言った。
「清美ちゃん、わたし先生呼びに行って来る!」
そして教室を飛び出し、登校する生徒達をかき分け職員室へと走りだす。あのガタイのいい三人相手に、細身の竜崎がひとりで勝てるはずがない。早くしないと彼がひどい目にあってしまう。あの白い肌が赤黒く染まっていくところを想像して、ぞっとする。急がないと!
「あれ、佐藤さんどうしたんですか?」
「!」
(何か聞き覚えのある声がしたような…)
階段を駆け降りる途中で足を止める。まさかと思って見回せば、階段を上がる生徒の中からにょきっと顔を出す竜崎が見えた。その顔はどこも怪我をしてないし、制服は汚れてもない。
「えっ、喧嘩したんじゃ…」
階段を上がって隣に立った彼は、ナナの言葉に頷く。
「もうそこで終わりました。私、結構強いんですよ」
下の男子トイレを指差しながら、何でわざわざ汚い場所でやるんでしょうねと呟く彼に、ナナは安堵と呆れのため息をつく。何もなくてよかったけれど……もやもやする。
「そっか…戻ろ……」
生徒の波に乗ってのろのろと引き返し始めれば、竜崎も自分に続き、後ろから問いかけてきた。
「…もしかして佐藤さん、心配してきてくれたんですか?」
「……だったら?」
なんだか肯定するのが気恥ずかしく、振り向かずに応えれば、
「嬉しいです」
と、いつも平坦な口調の彼にしては、珍しく感情がこもった声が返ってくる。
思わず立ち止まって振り向くと、竜崎は薄く微笑んでいた。いつもと違って嬉しそうな笑み……のような気がする。
「ありがとうございます、ナナさん。優しいんですね」
「…わたしは始めから優しいです」
ナナはまた前を向いて歩きながら、喜んでるみたいし来てよかったかな、と思い直したのだった。
2012/09/25
20130809