犯人

九月中旬の肌寒い風が頬を刺激する。サラは自分の指先を口へ持って行き、暖かい息を吐きかけた。張り込みを行ってから、幾度目かの仕草になる。隣に息を潜めるエルは、寒そうなそぶりを見せなかった。ただその眼は、とある家に向けられたままだ。
サラたちはその家の裏にある路地の角から、ある人物が現れるのを待っている。午前零時に張り込んでから、果たして何時間経ったのだろう。今日現れるかもわからない相手だ。昨日は朝まで現れなかった。もしかしたら今日も、空振りに終わるかもしれない。
何もないところに立っているのはなかなかの苦痛だ。自分から一緒に張り込むといった手前、弱音は吐きたくなかったが、このまま今日も現れなければ張り込みをやめたくなる。エルに私語は禁止と言われているため、話しかけることもできない。これほど「張り込み」という捜査が退屈な苦行だとは思わなかった。
欠伸をかみ殺していると、エルがふと自分を見た。そして家の方を指す。サラは角から顔を出してそちらを見た。
家から出てきた人物は、薄紫のスカートを穿き、その上にコートを着ていた。靴はヒールのあるブーツではなく、平靴を履いている。その人は音もなく街灯の少ない路地へ歩いて行った。エルが自分に目配せする。「行きますよ」と言っているのだ。サラはエルの後について、その人を追った。
その人は狭い路地を中心に、ぐるぐるとイーストエンドを歩いた。まるで何かを探しているようだった。サラたちは家の角などに隠れながら、その人の後に続いた。
そして一〇分くらい歩いた後、その人の前に小柄な女性が現れた。この夜更けに街頭に立つ者など、売春婦以外にいない。ガス灯の下に立つ彼女は綺麗な顔をしていた。まだ若い。
その人は彼女に近づいた。ポケットから光る物を取り出しながら。その人が彼女に狙いを定めたのだった。
「来てください!」
エルが叫んだ。隠れていたラスクたちが一斉にその人を取り押さえる。その人は抵抗したが、三人の屈強な男に押さえられ、身動きが取れないようだった。ガス灯の光の下に、その顔が照らされる。
「……彼女に何をしようとしたんですか――デイヴィスさん」
その人――デイヴィスはエルを認めて驚いたようだったが、すぐに目を細めた。その表情には余裕が感じられた。
「これはこれは、エルさん。僕の後を追っていたんですか?」
「はい……売春婦連続殺人事件の犯人として、追っていました」
近くで呆然と騒動を見ていた女性が「ひっ」と小さく悲鳴をあげ、駆けだした。辺りにはサラとエル、そして自警団の三人に押さえつけられたデイヴィスだけになった。
「ほう、僕が犯人ですか。面白いことを言いますね……僕は客として彼女を買おうとしただけですが、なぜ犯人だと言い切れるのでしょう? ……ああ、このナイフは護身用でいつも持ち歩いているんです。彼女を刺そうとしたわけじゃありません」
デイヴィスはこの期に及んで白々しい嘘をついた。彼はべらべらと話し続ける。
「客としてこの格好はあり得ないとお思いですね? しかしこれは単なる趣味なんです。趣味に口を出されたくはない……そろそろ離してくれないか? 僕は無実だ」
「……シャーロットさんを、知っていますね?」
エルは彼を無視し、そう尋ねた。デイヴィスは顔色を変えることなく頷いた。
「ええ、ローズマリー・ストリートで花屋を営んでいる方ですね。この辺に住んでいればわかります」
「あなたはシャーロットさんから、その服を一式買いましたね?」
「まあ、買ったね。男の僕が女物を店で買うのはなかなか目立って嫌だし、同じくらいの背丈の彼女から譲ってもらった」
「そして赤毛のウィッグも買い、彼女になりすました」
デイヴィスは吹き出した。
「なりすましたって、別に僕はそんな気はないよ。たまたま赤毛のウィッグしかなかっただけだ」
「あなたの泊まってる部屋から、瓶詰めの臓器が見つかりました」
デイヴィスは何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。ただ、エルを睨んでいた。
「下宿屋の主人からも話を聞いてます。八月三一日、九月八日の両日とも、夜遅くに出かけたようだったと……今のような女装をして、売春婦に近づき襲った……違いますか?」
デイヴィスはまたも無言だった。
エルは彼に近づいた。そして容赦なく言った。
「……ヤードにはもう連絡が行っている。おまえに逃げ場はない」
観念したらしく、「チッ」とデイヴィスは舌打ちした。
「一つだけ教えろ。なぜ売春婦を殺した?」
「……生きている人間で解剖したかった、ただそれだけだ」
「それだけのことで、この子の母親を殺したのか」
デイヴィスの目が自分を射貫く。彼は笑った。
「ああ、そうさ。それだけで殺したんだ」
サラは深い憎しみを胸に抱いた。この男を今すぐ殺したい衝動が貫いた。今なら男が落としたナイフで、その首を掻き切ることができる……母に、アニーに、この男がやったのと同じように……。
けれど、殺したって何の解決にもならない。サラは幼いながらもわかっていた。この男を殺しても、母はもう戻っては来ない。永遠に、戻っては来ない。
エルは警察が到着するまでデイヴィスを見下ろしていた。その目は鋭く、冷ややかな侮蔑があった。