指輪

九月一〇日の朝もまた、曇っていた。厚い雲で覆われた空を窓の外に眺めながら朝食をとる。エルは紅茶をスプーンでかちゃかちゃとかき回しながら、朝刊を読んでいた。
今日は誰も、エルを待っていなかった。報酬がもらえないので、イーストエンドの人々はほとほと醒めてしまったらしい。エルは気にする様子もなかった。有益な情報がないなら、謝礼をもらえなくて当然だと言った。むしろお金目当てで集まる人々が減って清々したようだった。
二面を捲ったエルは、とある記事に目を引かれたようだった。そして「いい記事が見つかりましたよ」とこちらに見せた。どれどれ、と新聞をのぞき込む。

ホワイトチャペルの商人で構成される、自警団の結成について
イーストエンドで発生している殺人について、現在の警察の力ではこの事件の犯人を追えないと判断し、我々は自警団を組織する。犯人逮捕の手がかりとなる情報の提供者には、身分国籍問わず、相当の謝礼を支払う。
ホワイトチャペル自警団団長 ジョージ・ラスク

「エルと同じことしてるね」
「そうですね、おそらく私のようにガセネタばかりが集まるでしょうが……自警団が結成されたのは良い知らせです。私の服を取りに行ったあと、ジョージ・ラスクさんの家に行ってみましょう。味方にできれば心強い」
新聞には彼の住所も記載されていた。警察の代わりとして自警団を味方にできれば、彼らと一緒に夜も出歩けるだろう。
朝食を食べ終えて支度をすると、エルがリリーに、夕方には帰ると伝えた。リリーは今日は誰も下宿前にいなかったからか、「わかりました」とちゃんと返事をした。彼女の機嫌はもうすっかり直ったらしい。ひそかに安堵しながら――泊めてもらっている身として、女主人と険悪な関係にはなりたくなかった――エルとともに宿を出た。
最初にシャーロットの家へ向かう。まだ午前八時だったため、店は閉まっていた。けれど、シャーロットは中にいるはず。扉をノックする。
「シャーロットさん、いるの? いたらちょっと話があるから出てきてほしいんだ」
中からばたばたと音がして、今度は扉が開いた。顔を出したシャーロットに、サラは思わず息をのんだ。彼女は病気なのではと疑うほど、頬がこけて痩せ細っていた。数日前に会ったときは、ここまでやつれていなかったはずだ。理由を聞こうとする前に、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい、ちょっと忙しくてあまり話はできないんだけど……」
「数分で済みますので大丈夫ですよ」とエルが答えた。そして彼女の変化には触れず、単刀直入に聞いた。
「八月三一日と九月八日の午前一時頃、長い赤毛の女性をホワイトチャペルで見かけたという証言があったのですが、覚えはありますか?」
シャーロットは大きく目を見開いた。その目には恐怖が浮かび、唇はかすかに震えていた。どう見ても覚えがありそうだったが、彼女は否定した。
「い、いえ、覚えなんてないわ。私はそのとき眠っていたもの……」
「……そうですか」
「話ってそれで終わり?」
「はい」とエルが頷くと、「じゃあ」とシャーロットは扉を閉めてしまった。鍵をかける音が聞こえてくる。サラはエルと顔を見合わせた。
「シャーロットさん、どう見ても……」
「はい。何か知ってますね……彼女がやつれていたことに、何か心当たりはありますか?」
言われて、前々から気になっていた指輪のことが思い浮かんだ。
「シャーロットさん、亡くなった旦那さんがつけてた結婚指輪をなくしたって言ってたよ。今も見つからなくて、だからやつれちゃったのかもしれない」
「……指輪をなくした時期はわかりますか?」
「うーん、八月の中旬くらいに初めて聞いたかな」
「なるほど」とエルは親指をくわえた。
「指輪、ですか……気になりますね」
とはいえシャーロットはもうこれ以上話してはくれないだろう。エルはそう考え、一旦ローズマリー・レーンを離れることにした。ホワイトチャペルまで戻り、駅からメイフェアに向かった。
老紳士は温かくサラたちを出迎えてくれた。長袖が渡され、エルがその場で試着する。
「やっぱり暖かくていいですね、伸縮性もあり動きやすいです」
エルは気に入ったようだった。老紳士はもう一度エルの「化学繊維」の長袖を触りたそうだったが、それを知ってか知らずか、エルはすぐにそれを摘まんでしまった。
「袋か何かありませんか? これは持って帰りたいです」
「はい、ございますよ」
手渡された袋に、エルが着ていた服を入れる。そしてお金を払い――やはり高級な仕立屋らしく、三ポンドした――サラたちはメイフェアを出た。
帰りの汽車の中、窓の外を飛んでいく風景を楽しんでいると、ホワイトチャペルまであと一駅のところで、見覚えのある人が乗ってきた。
「……ドルイットさん?」
黒のフロックコートを着たドルイットは、こちらに気づき「おお」と近づいてきた。彼の後ろには、同じくコートを着た一七、八頃の青年がいた。
サラじゃないか、どこに行ってたんだい?」
「メイフェアだよ、エルの服を作ってたの」
「……こんにちは」
エルが挨拶する。ドルイットも挨拶を返し、ちょうど空いていた向かいの席へ青年と一緒に座った。
「ずっと聞きたかったんだが、きみは探偵さんかい? スター紙に広告を出してた……」
「はい、そうです」
ドルイットはエルの返答に、嬉しそうに笑った。
「すごいなあ、探偵か……昔は小説を読んで憧れたものだ」
「……エドガー・アラン・ポーですか?」
「その通り!」とドルイットは身を乗り出した。
「デュパンの活躍にはわくわくしたねえ、手に汗握ったのは初めてだよ」
「デュパンをご存知なら、ホームズは知ってますか?」
「ホームズ? いや、知らないな……」
「アーサー・コナン・ドイルの書く探偵です。彼もなかなかいいですよ。雑誌に載っているはずです、なんと言う雑誌かは忘れましたが」
デュパンもホームズもわからないサラには、ちんぷんかんぷんな会話だった。エルはいつの間にそんな小説を読んでいたのだろう。それとも、未来でもそれらは有名な小説なのだろうか。
「ほう、それは読んでみたい。さすが探偵だけあって、推理小説に詳しいね……どうだい、もっと話したいから、私たちとレストランでお昼を食べないか?」
「……先生」
隣にいた青年が彼に声をかけた。「おっと」とドルイットは無邪気に笑った。
「紹介するのが遅かったね……この子は私の教え子のオリバー・デイヴィスだ」
デイヴィスは「初めまして」と微笑んだ。えくぼができ、人懐っこい印象を受ける。いつかのそばかすの新聞売りとは大違いだ。サラたちも挨拶したところで、汽車はホワイトチャペルに着いた。
ドルイットはよく利用するというレストランに案内してくれた。
「最近はロンドン病院で教えてるから、この辺に詳しくなったんだ」
レストランへ向かいながら、彼が鷹揚に話す。
「……何を教えてらっしゃるのですか?」
「解剖学だよ」
エルの目付きが変わったような気がした。ドルイットが解剖学を教えていたことは初耳だったが、サラは彼が犯人とは考えたくなかった。
胸騒ぎを感じながら、レストランの席につき、注文する。サラは何も食べられない気がしたので、昨日のカフェと同じくミルクにした。
「食べないのかい?」とドルイットが心配してくれる。
「うん……下宿屋の朝ごはんでおなかいっぱい」
サラたちは下宿屋で暮らしてるのかい? こないだは簡易宿泊所と言っていたが」
「そうだよ、お金はエルが稼いでくれた」
高級パブでエルが貴族からお金を巻き上げた話をすると、「ほう」と彼は感嘆した。
「カードゲームの才能があるのか、すごいね……貴族に勝つのはなかなか難しいよ」
「元々ポーカーが得意だったんです」
そう話すと、エルは話題を変えた。
「ドルイットさんたちは、この辺にお住まいで?」
「ああ、そうだ。だけど私とオリバーは別の下宿屋に住んでる。ロンドン病院に近いところを探したんだ」
ドルイットたちの住む下宿屋は、サラたちの下宿屋とは、ロンドン病院を挟んで反対方向にあった。今は主にロンドン病院の新米医師たちに教えているのだという。
「では、デイヴィスさんは医者なのですね?」
デイヴィスは手を止めて「はい」と微笑んだ。
「ショーン・ケビンさんをご存じですか?」
「ええ、もちろん。僕の先輩に当たります」
「彼が面白い情報を私の元に持ってきてくれたんです。夜中のホワイトチャペルで、事件のあった両日、長い赤毛の女性を見たという情報を」
「へえ!」とドルイットは声を上げ、「それは興味深いですね……」とデイヴィスは思案顔で頷いた。
「お二方は、彼女を見たことはありますか?」
二人とも考え込んだが、どちらも首を振った。
「いや、見たことはないな」
「僕もです」
「そうですか……」
「他に何か情報はなかったのかい?」
ドルイットは探偵小説好きの血が騒ぐのか、エルにそう尋ねた。
サラは今気づいたが、ドルイットは左手でフォークをとり、ベーコンを食べていた。エルの言葉が蘇る。まさか、とサラは心の中で首を振った。優しいドルイットが犯人なわけがない。
反対に、目の前に座るデイヴィスは右利きだった。
「……他にも一つ気になる情報がありました。ケビンさんが女性を見かけた日、同じくドルイットさんたちの住む下宿屋付近で、血にまみれた服の切れ端を見つけたと」
「ほう!」
「まさか!」
今度は二人とも、驚いたように声を上げた。聞いたことのない情報だ。エルを見やるも、彼は目を合わせてくれなかった。
「それが本当なら、なぜ警察はその情報を明るみに出さないんです?」
デイヴィスが眉をひそめながら尋ねる。エルはさらりと答えた。
「時期尚早ということで、世間には知らせないようにしているようです……この件について、何かご存じですか?」
「いや、聞いたことないな……」
「僕も、初めて聞きました」
それからは、エルは事件についてあまり話さなかった。ただドルイットの質問をのらりくらりとかわしながら、ケーキをつついていた。
ドルイットはそのあからさまな態度で察したのか、今度は探偵小説に話題が変えた。デイヴィスも有名なものは大方読んでいるらしく、サラだけが話に加われなかった。勝手に盛り上がる年上の大人たち――エルは特に盛り上がっていなかったが――を傍から見ているのは、とてつもなくつまらないものだ。その退屈さは、ドルイット犯人説を忘れさせるくらいだった。
入ってから一時間は経っただろうか。ようやくドルイットがそろそろ出ようと言い、レストランを後にした。彼は皆の分を奢ってくれた。
「じゃあ、私たちも捜査にできるだけ協力するから、何かあったら言ってくれ」
「わかりました、ありがとうござ――」
別れ際、エルは何かに気をとられたように、向かいの歩道に視線を向けた。それから何も言わず、足早にコマーシャル・ストリートのほうへ歩いていってしまった。
「エ、エル? 待って――」
サラは人々の間から見えるとがった黒髪を追う。声は聞こえているはずなのに、彼は立ち止まらない。
徐々に焦りと不安が濃くなってきた。
ここでエルを見失ったら、もう会えないような気がした。何せ、エルは未来から来た人だ。いつエルの時代に帰ってもおかしくない。
しかしエルの足は、靴を引きずっているというのに速く、なかなか追いつけなかった。これまでサラの速度に合わせてくれていたことがわかる。
「危ないよ、サラ!」
後ろからドルイットの声がする。それでもサラは足を止めなかった。エルを見失うことが何よりもこわかった。
そして、角を曲がった瞬間――。
「わっ!」
「きゃっ!」
向かいから来た淑女とぶつかってしまった。「いたた」と体を起こしてじくじくと痛む膝を見る。石畳で擦れた膝は、赤く滲んでいた。
「大丈夫かい?」
追いかけてくれていたらしい、ドルイットたちがサラに駆け寄る。デイヴィスが淑女の手を取って立たせた。彼女に怪我はないようだった。
「すみません」と彼女を見上げて謝る。淑女は「いいのよ」と微笑んでくれた。
「大した怪我じゃないが、念の為止血したほうがいいな」
そう言って、ドルイットがポケットに手を入れた。しかし、それをデイヴィスが制した。
「……先生、僕が」
デイヴィスは綿のハンカチを取り出し、サラの膝に巻いて結んだ。さすがは医者とあって、手馴れている。
ふと後ろに人の気配を感じて振り向くと、そこにはいつの間にいたのか、エルが立っていた。目が合うと、「大丈夫ですか?」と何もなかったかのように尋ねられた。
「大丈夫ですか、じゃないよ! エルを追いかけて転んだのに」
立ち上がりながら、エルをにらむ。彼は「すみません」と謝った。人差し指を口元に当てながら謝られたため、反省の色はまったく見えない。
ドルイットとデイヴィスは苦笑いしていた。「サラを置いていったらダメだよ」とエルに忠告すると、別れを告げて二人は去っていった。淑女もいなくなっていた。
「何を追いかけてたの?」
「コナン・ドイルがそこにいたんです」
有名人に会いたかっただけか。エルが未来に帰ってしまうことも想定して、不安に思っていた自分が馬鹿みたいだ。
呆れて物も言えないでいると、エルは話題を変えた。
「ラスクさんの家に行ってみましょうか」
ジョージ・ラスクの家はオズボーン・ストリートにあった。彼の家の前にはやはり行列ができていて、ラスクと思われる目つきの鋭い男性が、一人ずつ話を聞いているようだった。サラは並ばなければと思ったが、エルはその行列を無視し、ラスクに話しかけた。
「こんにちは」
ラスクはなんだこいつは、と言いたげな表情でエルを見た。
「……あんたは?」
「私はエルといって、探偵をしています。ラスクさんが自警団を作ったと聞き、一つ質問したいことがありまして」
エルの職業を聞いて、ラスクの警戒は少し解けたらしい。
「何だ?」
「自警団の皆さんは、夜にこの付近をパトロールしたりするのでしょうか?」
「ああ、そりゃあするよ。今日から自警団のメンバーで、順番にパトロールしようと思ってる」
「私も今日、パトロールにご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
ラスクは驚いたようだったが、すぐにこう言った。
「それは、他の奴らにも聞いてみねえとわからねえな……ちょっとこっちに来てくれ」
ラスクは家の中へサラたちを入れてくれた。通された部屋には三人の商人らしき人々がいた。ところどころ穴の開いたソファに、二人が収まり悪く座り、一人がソファの背もたれに寄りかかるように立っていた。部屋の壁には飾りがなく、湿気のため変色している。サラの住んでいた宿泊所と同じような部屋だった。どうやって謝礼を出すのだろう、とサラは疑問に思った。
「ラスク、この人は?」
ソファに座る一人が顎でエルを指した。
「エルって言う、探偵さんだ。今夜のパトロールにご一緒したいんだそうだ」
「探偵?」とソファに座る二人は訝しげな顔をした。ただ一人だけ、背もたれにもたれていた男がぱっと顔を輝かせた。彼は興奮したようにエルに近づいた。
「探偵って……それは本当ですかい?」
「はい」とエルは短く答えた。「最近起きている売春婦連続殺人事件について追っています」
目の前に立つ男性は感嘆した。
「すげえ……まさか、探偵さんに会えるとは思ってなかったぜ……」
「おいおい、なんだルーク、探偵に憧れてたのか?」
二人のうち一人が茶化すと、ルークと呼ばれた男性は「うるせえ」と顔を赤くした。
「んで、どうする? 俺は探偵さんも一緒に来てもらった方が、事件の解決に向けて加速するんじゃないかと思うんだが」
ラスクが彼らに問いかけた。
「俺はもちろん賛成だ」とルークが言う。
「まあ、ラスクが賛成なら俺も」
「俺もまあ、異論はない」
「満場一致だな……というわけで探偵さん、今日の午前零時にこの家の前に来てくれ」
「わかりました」
ラスクとエルだけで話が終わったことを、サラは不服に思った。
「私も今日、一緒にパトロールしたい」
そう言うと、ラスクは「だめだ」と首を振った。
「いくら大人と一緒でも、万が一のことがある。嬢ちゃんは来ない方がいい」
助けを求めてエルを見る。信じられないことに、エルも首を振った。
「申し訳ないですが、今回はダメです。万が一襲われた場合、サラさんを守れる保証はありませんし、今サラさんは足に怪我をしています。約束を取り決めたのは私ですが、今夜は下宿屋で留守番していてください」
サラはむっとエルを睨む。
「怪我をしたのは誰のせいだと思ってるの?」
「……それは私のせいです、すみません。ただ、怪我があってもなくても、サラさんを夜の街に連れてはいかないと決めていました」
「怪我がなくても連れて行かなかったって、何? ずっと一緒に行動してくれって言ってたじゃん!」
「深夜にこの付近を歩くことは自殺行為です。確かに一緒に行動してくれとお願いしたのは私ですが、今回は別です。そんな危険な行為にサラさんを巻き込むわけにはいきません」
「ま、まあまあ、親子喧嘩はそれくらいに……」
ルークが口を挟んできた。サラたちは彼を向き、叫んだ。
「親子じゃない!」
「親子じゃないです」
エルを睨む目に力を込める。しかし、彼は引かなかった。静かな海面を思わせるほど凪いでいる彼の瞳は、揺るがなかった。それが余計にサラを腹立たせる。大人の余裕を見せつけられ、自分は子供なのだと思い知らされる。
「危険危険って言うのはわかるけど、それなら最初から『一緒にいて』なんて言わなきゃよかったじゃない! もう、エルなんて知らない!」
サラさん!」
サラはラスクの家を出た。辺りはすでに日が傾き始めていた。下宿屋に戻れば、夕飯が用意されているだろう。けれどこのまま帰るのは癪だった。エルの思い通りになんてするもんか!
後ろからずるずると靴を引きずる音が聞こえてくる。エルだ。追ってきている。
狭い路地に入り、彼をやり過ごす。幸いにも気づいた様子はなく、通り過ぎていった。きっと下宿屋に自分はいるのだと疑っていないのだろう。残念、そんなに自分は愚直ではない。
「号外! 『レザー・エプロン』が逮捕された!」
――「レザー・エプロン」?
聞き覚えのある言葉が近くから聞こえてきた。シック部長刑事の話を思い出す。「現場にあったレザー・エプロンは犯人の物とみて、そのあだ名がある者を近々逮捕する」と彼は話していた。それが今回の逮捕者だろうか。
路地から出て、号外を手に取る。

『レザー・エプロン』逮捕!
スコットランド・ヤードは現場にレザー・エプロンが捨ててあったことから、『レザー・エプロン』のあだ名を持つ、ユダヤ系ポーランド移民、ジョン・バイザーを午後二時に逮捕した。バイザーは三三歳。身長五フィート三センチ。小柄な男で黒い口ひげを生やしている。
マルベリー・ストリート二二番地の簡易宿泊所に住み、靴職人をしているバイザーは、いつもレザー・エプロンを身につけ、鋭いナイフを持っていた。独身であり、売春婦たちとも顔見知りだった。

こうして読むと、バイザーこそが犯人と思えてくる。大衆を動かす新聞の力は大きい。
唐突に肩を軽く叩かれ、振り返る。エルがそこに立っていた。
「どんな記事です?」
先ほどのことなどなかったかのように彼は言ったため、サラもそうすることにした。怒りなどすでに収まっていた。自分の本来の目的を思い出したのだった。
「『レザー・エプロン』を逮捕したんだって」
エルに新聞を渡す。彼は記事に目を通し、「本当にバイザーが犯人のように思えてきますね」とサラと同じ感想を言った。
「でも、違うんでしょ?」
「はい、違います」
歩き出したエルに合わせて、自分も足を動かす。
「検死審問は明後日と書かれてましたね……そこでバイザーのアリバイが証明されれば、彼は無罪で釈放されるでしょう」
「実際、アリバイは証明されたんでしょう?」
この事件は解決しなかった事件として未来でも有名だった。ということは、ジョン・バイザーが犯人として立証されることはないといえる。
「まあ……あまり覚えてませんが、そうだったと思います」
「……この事件を調べてたのって、エルが何歳くらいの時だったの?」
「一〇歳くらいでした」
「エルって今何歳?」
「……二二です」
一二年前にエルはこの事件を調べていたということか。サラはまだ一〇年も生きていないが、大人になればなるほど忘れることも増えていくのだろうか。
「……今、失礼なことを考えてますね」
じとっとした目で見下ろされる。「そんなことないよ」と否定したものの、疑惑の目は緩まなかった。
下宿屋に着いたときには、リリーがキッチンで夕食の準備をしていた。日は暮れかけていたため一九時は過ぎているとわかっていたが、すでに二〇時を回っていたのは予想外だった。
「もうできますから掛けてください」
フォークを取り出しながら彼女は言う。サラたちはテーブルに着いた。
大きめのベーコン、そしてパンと炒めたじゃがいもや人参などを載せた皿が目の前に置かれる。対してエルは、生クリームが挟まれたスポンジケーキだ。
なぜエルが普通の夕食でないのかというと、彼がリリーに普通の食事ではなく、甘い物を朝と晩に食べたいと伝えたからだ。理由は甘い物が好きというわけではなく、脳の働きをよくするために甘い物が必要だから、ということだった。それはエルのいる現代では、科学的に立証されているらしい。
つくづく変な人だと思う。「天才には変わった人が多い」という、拾った雑誌の一文が想起される。そのときは天才がどういう人か想像できなかったけれど、エルを前にして、なんとなくわかった気がする。
「……エルは、午前零時まで何してるの?」
じゃがいもを食べながら聞く。
「一人で外を出歩くのは危険なので、部屋で夕刊を読んだり外を眺めたりして過ごそうかと思います」
エルはフォークをつまむように持ち、ケーキを割りながら答える。
「仮眠とか取らないの? 私今日ソファで寝るから、ベッドで寝たらいいよ」
エルは今までサラの寝ているベッドに入ってきたことがない。遠慮しているのなら、と提案したものの、エルはこう言った。
「ありがとうございます……でも、大丈夫です。私はあの肘掛け椅子が落ち着くので」
彼の言葉に嘘はなさそうだった。
「そうなんだ」とパンに視線を落とす。ふと、ある考えが浮かんできた。
「……まさか、あの椅子の上で寝てないよね?」
エルがそこまで変人だと信じたくなくて、怖々尋ねるも、返ってきたのは肯定だった。
「たまに寝てますよ」
「えっ」
サラさんが規則正しい生活をしているので、私も夜は眠ることが多いです」
一体どういう意味だろう。
「エルは夜寝てなかったの?」
「寝るときは寝ますが、基本的に一日中起きてます」
口の端に生クリームをつけながら、当たり前のように言うエルに、サラは唖然とした。もはや彼は「変人」ではなく、人間の域を超えている。
部屋に戻ると、サラだけお風呂に入り、早々にベッドに潜った。夜は特にすることがない――パトロールにも参加できないし――ため、寝るしかない。一方エルは夕刊を読んだり、ただぼんやりと考え事をしていたりした。
サラは目を閉じてみたものの、やはり今日のパトロールが気になり、なかなか寝付けなかった。
寝返りを何度打っただろう。ふと傍らから、「行ってきますから、寝るときは照明を消して、ちゃんとここにいてください」とエルの声が聞こえた。起きていたことを見破られていた。
サラは目を開けてエルに「わかった」と答える。
「気をつけて」
「はい。行ってきます」
エルは部屋から去って行った。
サラは再び寝ようとしたが、まったく目が冴えてしまって眠りに落ちる兆候もなかった。それからエルが戻るまで眠れないということに気づき、諦めてベッドから出た。
時計を見ると午前一時。エルたちは今、どの辺を見回っているのだろう。母が殺されたバックス・ロウか。アニーが発見されたハンバリー・ストリートか。
カーテンを引き、窓から通りを見る。ガス灯で照らされた通りには、人っ子一人、馬一匹もいなかった。いつもなら、パブで酔っ払った大人たちがふらふらと騒ぎながら歩いているというのに。サラたちの追っている、連続殺人事件の影響は大きい。
ふと通りの端から、背の高い女性が歩いてきた。赤毛の長い髪、季節外れの黒のコートにスカート。顔はここからでは遠くて見えないが、彼女はとてもシャーロットに似ていた。
サラはいても立ってもいられなかった。彼女が本当にシャーロットかどうか、確かめる必要があると確信した。エルはここにいてくれと言ったけれど、それを確かめられたら、きっとエルも許してくれるだろう。サラも捜査の役に立つことを示すのだ。
深く考える間もなく、サラは下宿を飛び出した。
サラが外に出たときには、彼女はすでに下宿屋を通り過ぎ、コマーシャル・ストリートに差しかかっていた。
サラは彼女に呼びかけた。
「シャーロットさん?」
女性は振り返ることもせず、逃げるように駆けだした。サラは慌ててその後を追う。
「待って! シャーロットさんなの!?」
女性はコマーシャル・ストリートを曲がった。サラも曲がろうとしたが、ストリートにはすでに彼女の姿はなかった。路地かどこかに入ったらしい。
暗がりの中をじっと見つめていると、ばたばたと複数人の足音が後ろから近づいてきた。
「……サラさん!?」
エルとラスクたちだった。
「なぜサラさんがここに……私は下宿にいるよう言いましたよね?」
エルは珍しく気色ばんでいた。いつもよりも声音は低く、怒っているとわかる。弁解はできない。
「ごめん……窓からシャーロットさんに似た女の人を見かけたから、外に出ちゃったの」
「……それで追いかけたんですか?」
「うん……けど見失っちゃった」
自分は何をしているのだろうと、サラは悲しくなった。シャーロットかどうかを確かめるために通りに出たのに、それもできず、ただエルに怒られている。
「まあ、何もなくてよかったですが……今後は私の言うことをちゃんと聞いてください」
「はい……」
下宿屋からそんなに離れていなかったが、サラをそこまで送り届けてくれるらしい。
皆で歩き出したとき、エルは足下を見下ろした。地面に何かを発見したようだった。
「ライトで地面を照らしていただいてもいいですか?」
照らされた地面に屈んだエルは、小さな光る物を手に取った。
「それって……」
ざわりと胸が騒ぐ。エルの指につままれたそれは、ライトのぼんやりした光を受けて鈍く輝く。
「指輪です」
華奢な指輪ではなかった。太い線で作られていた。
「……男性用?」
「その可能性が高いです」
「じゃあ私が見た女性はやっぱり……」
「何とも言えませんが……シャーロットさんであった可能性は高い」
シャーロットだったと仮定すると、なぜ夜中にうろうろと街灯の少ない危険な場所を徘徊しているのか。指輪を探していたのだろうか。しかし、わざわざ夜中に探す意味はないように思える。そもそもこの指輪はシャーロット本人が落としたのではないだろうか。
疑問は次から次へと湧いてくる。何も言えないでいると、エルが下宿屋へ歩き出した。
「明日、朝食を食べたら、シャーロットさんの家に行ってみましょう。本人に聞くのが一番です」

翌朝。急ぐような気持ちで朝食を食べ、サラたちは辻馬車でローズマリー・ロードへ向かった。
シャーロットの家の扉をノックする。
「シャーロットさん、いたら開けて。大事な話があるの」
しかし、彼女は扉を開けてくれなかった。窓にはカーテンが引かれているため中は見えないが、時々聞こえる物音が、彼女がいることを示していた。やはり自分たちと話したくないらしい。
代わりにエルがドアを叩く。
「シャーロットさん、開けてください。指輪は見つかりましたよ」
この言葉は有効だったらしい。足音が玄関へ近づいてくる。サラたちは顔を見合わせ、それから姿を見せるであろうシャーロットを待った。