このところ、曇りの日が続いている――エルに会えない日々が、続いている。
休日の朝、テレビをつけると天気予報がやっていた。梅雨明けが近づいてきていると、気象予報士は言った。
『早ければ、今週中に梅雨明けが発表されるでしょう』
梅雨が明けてしまえば、エルと会える確率は低くなる。考えたくなくて、チャンネルを変えた。今度はキャスターが、視聴者に向けて訴えている。
『不審な人物を見たという情報があれば、こちらの番号までご連絡ください――03の……』
透桜子はテレビを消した。知りたくない情報が、一方的に流れてくる。
透桜子は居間を見回した。エルのいないこの家は、どことなくよそよそしい。今までは一人で暮らしていたというのに、エルと住むようになってから、一人の時にそう感じることが多くなった。
掃除をする気力もなく、逃げるように家を出る。目的はなかったが、歩いているだけで気を紛らわせることができた。公園に行こうかと思った矢先、声をかけられた。市原さんだ。
「あら、
透桜子ちゃん。お出かけ?」
「いえ、散歩です。その辺をぶらぶら」
「今日はちょうどいい天気だものね」と市原さんが空を見る。見上げて初めて、
透桜子は気づいた。雲は相変わらず多いけれど、青空がところどころ見えている。
「晴れ間なんて、久しぶりね」
「……そうですね」
それ以上は、何も言えなかった。ただ、梅雨明けが近いことは確かだと思い知らされた。少し立ち話をし、「じゃあ」と市原さんが去ろうとする。
透桜子は彼女を呼び止めた。
「どうしたの?」
「市原さんは――」
言いかけて、やめた。これ以上知りたくもない情報を、頭に入れたくなかった。思い知らされたくなかった。
「……何でもないです」
市原さんは、気遣うようにこちらを見た。
「そう? 何かあったらいつでも言ってね。相談乗るから」
「ありがとうございます」
ちゃんと笑えただろうか。表情を作るのが、難しく感じた。自分はこんなに感情を隠すのが、下手だったろうか。
――エルに会いたい。
どうしようもなく、思った。
その願いは、その日の晩に叶えられた。
ぱらぱらと雨の降り出す音に、目を覚ます。時計を確認する。午前零時ちょうど。とっさにベッドを下り、ガウンを着て一階へ急ぐ。
居間のソファには――エルがいた。最初からそこに存在していたかのように、いつもの座り方で、ソファに座っていた。
「こんばんは。
透桜子さん」
「……こんばんは」
落ち着いた声に、肩の力が抜ける。どうぞと促され、隣に腰掛ける。
「――今日は、話の続きをしましょうか」
エルの言葉に迷いながらも頷く。エルは、キラ事件の続きを話し始めた。
夜神月とともに、ヨツバという企業の役員を調べたこと。ヨツバのキラを確保しようとしたとき、心臓麻痺で彼が死んだこと。彼が持っていた『DEATHNOTE』というノートが、キラの殺人兵器だったこと。ノートを検証しようとしたとき、ワタリがキラに殺されたこと。そして――
「私も、キラに……夜神月に殺されました」
無言で彼を見つめる。彼は悔しげに眉をひそめた。
「検証ができれば、夜神月も弥海砂も、キラとして逮捕することができた……しかし、その直前に殺されました――負けました……死の直前に見た夜神月の勝ち誇った表情は、忘れられません」
どれだけ悔しかったろう。夜神月も弥海砂も、キラだとエルは確信していたのに。証拠が挙がる直前に、殺されてしまった――。エルの悔しさは、おそらく自分の想像を超えている。
「……キラ事件の話は、これで終わりです」
エルは悔しいとも、悲しいとも言わずに、淡々とそう締めくくった。そして、自分と向き直る。ひそめていた眉は、元に戻っていた。いつもの、落ち着いた表情だった。
「これからは、『今』の話をしましょう」
「……はい」
透桜子は覚悟を決めた。エルはこちらを見つめ、何でもないように言った。
「お互いの姿が見えないとき、お互いの痕跡もないことに、気づいてますね?」
――気づいていた。
隣に敷いていたはずの布団がない。買ってあげたエルの服が、洗濯かごにも、どこにもない。開設した証券口座も、エルを写した写真も。エルが解決したはずの事件は解決されず、キャスターが情報を呼びかける。市原さんは竜崎の名前を出さない。ただ、エルの存在を示すのは日記だけ。
全部気づいていた。気づいていて、見て見ぬふりをした。わざと話題に出さなかった。
顔を伏せ、頷きもしない自分に、エルは言葉を続ける。
「私の場合は、おそらく
透桜子さんとは違います」
「違う……?」
「一度、外に出たことがあります……
透桜子さんの他にも、誰の姿もありませんでした」
胸がどきりと嫌な音を立てた。思わず顔を上げる。
「それって……」
「多分、こういうことなんでしょう」とエルは続けた。動揺する自分と違い、落ち着き払っている。
「私は、すでに死んだ人間です。死んだ人間と、生きる人間の世界は、同じはずがない。ただ、何の因果か、零時に雨が降ったときだけ、生きる人間の世界にいられる。
透桜子さんとも会える」
手にぽつりと冷たさを感じて、初めて自分が泣いていることがわかった。エルの世界と自分の世界は交わらない。その事実に、涙が止まらない。彼はそれをいつから悟っていたのだろう。いつから一人で抱え込んでいたのだろう。
「
透桜子さんに私の世界の話、私は死んだという事実を教えれば、私はワタリや捜査官たちの眠る世界に行けるだろうと、直感していました……しかし、今まで言い出せなかったのは、
透桜子さんとの時間がとても居心地良かったからです」
エルが、ゆっくりと、薄く、透明になっていく。行かないで、と手を伸ばす。その手は空を切った。最後まで、エルに触れられないのか。
「
透桜子さんに、私の未練や悔しさを話すために、この世界に来たのかもしれません……仏教で言うと、成仏できるように――そう図られたのかもしれません」
彼は笑みを浮かべた。今まで見せたことのない、優しい笑みだった。
「さようなら、
透桜子さん。最後にあなたに会えてよかったです」
「私も、エルに会えて良かった」
しゃくりあげながらも必死で答える。
ありがとう。私と会ってくれてありがとう。居心地良いと言ってくれてありがとう。私もエルとの時間が居心地良かったよ。エルの前で、自分を初めてさらけ出せたよ。
「エルが、好きだったよ……」
その言葉は、エルに届かなかった。彼はすでに消えていた。
彼が座っていたソファに手を当てる。温かくない布の手触りに、声を上げて泣いた。エル。エル。エル。私はあなたが好きだったよ。人間として、異性として、好きだったよ。もういないとわかっているのに、思いがあふれて声に出る。
七夕の時の願い事なんて、叶わなくていい。この声が彼のところに届くのなら、平穏な日々が来なくてもいい。そう、思った。
まぶたの裏に光を感じて、目を開けた。カーテン越しにぼんやりと白い光が透けている――朝になっていた。いつの間にか、眠ってしまったようだった。
腫れぼったい目をこすり、数時間前の出来事を反芻する。エルは、行ってしまった。もう二度と、会うことはできない。
呆然と隣を見る。隣にエルはいない。エルが存在した痕跡も、ない。
そのとき頭に、日記のことが過ぎった。日記なら、エルの存在を確認できる。彼がここにいた証明になる。
藁にもすがるような気持ちで二階に上がり、自室の引き出しを開ける。日記を取り出し、ページを捲ると、あった。自分で書いた『エル』の文字が。
なぜ日記にエルの痕跡があるのかはわからない。けれどそんなことはどうだっていい。そこにエル
がいるなら、それでいい。
透桜子は机に向かい、今日の日記をつけ始めた。エルのことをすべて、日記に書き残したかった。今日はまだ始まったばかりだったが、今日の日記は、今までで一番長いものになった。
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今年も、梅雨の季節がやってくる。雨の降り注ぐ、じめじめとした曇りの季節が。
しかし、
透桜子にとっては一番好きな季節だった。元々梅雨が好きだったが、一昨年からは一層好きな季節となった。雨は汚れを落とすけれど、胸に仕舞った大切な思い出だけは、落とすことはできない。
透桜子は日記を読み返す度、雨の匂いを嗅ぐ度に一昨年のことを思い出す。ノスタルジックで、胸がぎゅっと締め付けられるような、愛おしくあたたかい気持ちになる出来事を。思い出す度に、
透桜子は同じ事を思う。
――どうか、彼が安らかに眠っていますように、と。
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