エルのいない休日は、ごくたまに友達と遊びに行くこともあるが、大体用事もなく、家にいることが多かった。平日はまだ、エルがいないことを紛らわせることができる。しかし、休日はそうもいかない。
そういう時、
透桜子は家の掃除をすることにしている。広い家は、掃除機をかけるのも時間がかかる。今日も、
透桜子は掃除機をかけていた。掃除機を居間や奥の座敷、廊下……と順番にかけていく。最後にエルの部屋を開けた。何もない、空っぽの部屋。一瞬心が乱れたが、何も考えないように、無心で掃除機をかける。彼の部屋は薄く埃が舞っていた。
掃除が終わると、
透桜子は自室へ上がった。エルのいない日にする習慣はもう一つある。自分の日記を読み返すことだ。
引き出しを開け、分厚い日記帳を取り出す。もう何年もつけているため、この日記帳は今年で一〇冊目。赤い表紙を開き、最近の日記を読み返す。自分の綴った『エル』の文字に安堵し、胸が締め付けられる。彼の存在を、確かめずにはいられなかった。
*
――今日は七夕だ。
そう気づいたのは、掃除をした次の日、仕事から帰ってきて、回覧板に入っていたチラシを目にしたときだった。大きな笹に願い事を書くというイベントが、商店街で行われているようだった。
幸運にも、今日はエルがいた。誘ってみると、「いいですね」と快諾してくれた。彼は外国人だから、日本の風習が珍しいのかも知れない。
二人で商店街へゆっくりと歩く。まだ日は落ちておらず、辺りは明るかった。夜風が靡いて気持ちいい。日中は蒸し暑い日が続いているが、夜は気温も下がり、過ごしやすかった。
商店街には、いつもより多くの人が行き交っていた。普段は見ない、浴衣を着た小さい子の姿もある。可愛らしい姿に目尻が緩む。
「お、
透桜子ちゃん、来てくれたのかい?」
常連となっている、魚屋の佐藤さんに声をかけられた。
「こんばんは。はい、回覧板でチラシを見まして……活気があって良いですね」
周りを見回し、佐藤さんは嬉しそうに笑った。
「たまにこういうイベントやらないと、商業施設にゃ勝てないからね……隣の方は?」
竜崎です、とエルは名乗った。自分以外には偽名を使うらしい。
「私のいとこなんです。ちょうど大学生で、私の家に居候してます」
「へえ、居候! てっきり
透桜子ちゃんの『これ』かと思ったよ~」
佐藤さんが親指を立てる。古いサインに苦笑いしそうになるが、堪えた。
「それはそうと、
透桜子ちゃん、うちの息子もらってくれねえかなあ」
明け透けな言葉に、今度は堪えきれず笑ってしまった。
「私が佐藤さんちに嫁ぐのではなく、息子さんが私のところに来るんですか?」
茶化すと、「ああ」と佐藤さんは真剣に頷いた。
「
透桜子ちゃんだったら、それもありだと思ってる。なんたって
透桜子ちゃんの家系はすごいからなあ」
「そんなことないですよ」と謙遜したところで、ちょうどお客さんが来た。
「まあ、考えといてくれ」
会話を切り上げ、お客のところへ佐藤さんは向かった。タイミング良く客が来てくれて良かった。この話はあまりしたくない。
「……行きましょうか」
エルに促され、佐藤さんのところを後にした。
イベントのメインである笹は、背が高く大きいものだった。自らの重みで、若干横に垂れている。周りには親子連れやカップルが多く、それぞれ書いた短冊を笹につるしていた。皆、とても楽しそうだ。時折笑い声が上がる。
商店街のスタッフに短冊を二枚もらい、設置された机のマッキーを手に取った。何を書こうかと逡巡する。少し考え、閃いた言葉を書いた。
――『平穏な毎日が続きますように』。
願わくは、これからもエルと一緒に暮らせますように。この願いには、そんな意味も込めている。
隣にいるエルの短冊を見る。彼は流暢に日本語を話すが、彼の短冊には英語でこう書かれていた。
――『R.I.P.』
日本語で『安らかに眠れ』。死を悼む言葉。彼は、死者への願いを書いていた。
盗み見ていることに気づいたのか、エルはこちらの短冊を見ようとする。
「なんて書いたんですか?」
「『平穏な毎日が続きますように』って」
「いい願いですね」
さらりと感想を言われる。彼の声は淡々としていて、たまに何を考えているのかわからないときがある。今が、そうだった。
二人で短冊を笹につるす。隣同士で揺れる短冊は、強い風で落ちてしまいそうな、そんな脆さをあった。
空が真っ赤に焼けていることに気づいたのは、家までの帰り道にある、坂を上っていたときだった。今日は珍しく雲が少なく、晴れていたことを思い出す。
「すごい、真っ赤だね。きれい」
月並みな感想しか出てこない。エルは「はい」と相づちを打った。
「ちょうどこの辺に、空がよく見えるところがあるから、ちょっと見ていかない?」
こうした夕焼けや、夜空を見るとき、いつも坂の上の駐車場から眺めていた。両親が生きているときも、死んだ後も。
エルが頷いたのを確認し、駐車場へ向かう。開けた場所から見る夕焼けは、格別に綺麗だった。日が落ちたところは真っ赤に燃え、そこから上に向けて深い青へと、色調が段階的に変化している。雲は朱い光に照らされ、とても幻想的だった。
「……綺麗ですね」
エルの呟きに、「ね」と同意する。
この場所で誰かと夕焼けを見るとは思わなかった。両親にも内緒だった場所。夕日に朱く照らされたエルの横顔を見て、エルとの時間がずっと続くように、と改めて願った。
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