瞼の裏に光を感じて目が覚める。カーテンからこぼれる淡い光が天井を照らしている。充電していた携帯を見れば、時刻は午前七時三〇分。日曜なので目覚ましをかけなかったが、いつもの時間と同じくらいに起きてしまった。
カーテンを開ける。雨は上がり、どんよりとした曇り空が広がっていた。着替えて一階へ降り、顔を洗う。エルがいるかもしれないので、櫛で髪を梳かしてから、居間へ向かった。エルは、昨晩と同じくソファに座っていた。テレビはつけられていなかったが、彼は起きていた。
「……おはようございます、エル」
「おはようございます」
「昨日は、眠らなかったんですか?」
「寝ようとしましたが、目が冴えてしまい、起きてました」
言葉通り、エルは眠そうに見えなかった。
「一緒に服を買いに行くのは、やめときましょうか」
気遣って提案するも、「いえ、一緒に行きます」とエルは短く答えた。
「眠くなったら、いつでも寝てくださいね」
そう声をかける。午前中じゃなくとも、開店時間内に行けばいい。
隅にある仏壇を開ける。祖父母と両親の位牌が並ぶ手前には、両親の写真を置いていた。鈴を鳴らし、手を合わせて挨拶する。
透桜子さんの、ご両親ですか?」
ちょうど終わったところで、後ろから声を掛けられた。振り向いて「そうです」と答える。エルは写真をまじまじと見ていた。
「……透桜子さんは、お母さんに似てらっしゃいますね」
生前は、母に似ているとよく言われた。その度、自分は美しい母に似ているのだと、嬉しく、誇らしい気持ちになった。今、久々にそう言われ、当時の感情を思い出し頬が緩む。
「ありがとうございます。母は、美人でしょう?」
「はい」
「母は、常に父の一歩後を歩くような大和撫子でした……朝ごはん、食べますか?」
エルがうなずくのを確認し、台所へ向かう。目玉焼きとトーストを作り、一緒に食べる。目玉焼きの黄身を柔らかめに作ったからか、エルの口の周りは黄色く汚れていた。昨日のカレーの時も口を拭いていたことを思い出す。食べるのが少し下手なのだろうか。ティッシュを差し出すと、どうもと言ってエルが受け取る。口を拭いている彼に、服のことを尋ねた。
「エルは、どういう服がいいとかありますか?」
「希望と言うか、こだわりはあります。私が昨日着ていたような、白い長そでとジーンズ、下着を五日分はほしいです……メーカーにこだわりはありません」
昨日会ったときの格好を、毎日したいということだ。どこで買えばいいか考える。縫製もなかなかしっかりしていて肌触りがよく、値段もお手頃なところは――
「ヨニクロに行きましょう」
エルの世界にヨニクロはなかったのか、「ヨニクロ?」と聞き返される。
「衣料品店です。あそこなら白の七分丈もジーンズも下着もあります。近所なので、歩いて行きましょう」
「わかりました……すみません、ありがとうございます」
エルは軽くお辞儀をして、トーストにかぶりついた。

ヨニクロはここから一〇分歩いたところにある。駅前から少し外れたところだ。早速エルは白の七分丈、ジーンズ、下着を探す。それ以外の服には興味を示さなかった。エルは服を試着し、気に入ったようだった。
「肌触りがいいですね。五枚ずつほしいです」
もちろん透桜子が支払った。自然な動作で紙袋をエルが持つ。紳士的な一面に、透桜子は目を瞬いた。流ちょうな日本語を話すため、日本人のように思っていたけれど、エルという名前からして、外国人だろう。出身が気になり、尋ねる。
「エルは、どこの出身ですか?」
「イギリス……ですかね」
曖昧な答え。
「出身がどこなのか、自分でもよくわからないんです」
自動ドアを抜ける。出身を知らないことは、よくある話なのだろうか。わからないため、ただ頷く。
ついでに隣にあるドラッグストアに寄り、エルの歯ブラシやシャンプー、ボディソープを買った。すべて男性向けのものだ。彼は無香料がいいらしい。
店を出ると、まだ分厚い雲が空を覆っていた。買い物は終わったので後は帰るだけだが、途中で降られたら困る。降らないよう願ったものの、叶わず、帰る道中で雨が降ってきてしまった。
「あ、降ってきた……!」
ぱらぱらと雫が落ちてきたかと思えば、一斉に地面を濡らす。雨宿りしましょう、とエルに連れられ近くの軒下に避難した。ハンカチを取り出し、エルに渡そうとするも、大丈夫だと断られる。自分の肩や腕を拭い、目の前で激しく降る雨を見つめる。スコールだ。万が一のために、折りたたみ傘は常備すべきだ。
「早くやむといいですね……」
「通り雨なので、すぐやむと思いますよ」
エルはそう言ったが、雨はなかなか止まなかった。買い物は済ませたため、雨が早く止まなければ困ることはなかった。湿度は高いが日差しがないため、カーディガンを着ていてちょうどいい気温だ。気長に待とうと、ざあざあ降りの雨を眺める。雫は激しく地面に落ち、瞬時に水たまりを作っていく。車が通ったが、道路から距離があるため濡れることはなかった。
エルへちらと目を向ける。彼は何を考えているのかわからない表情で、降りしきる雨を見上げていた。その顔が、昨日雨に濡れていたエルと重なる。
「――エル」
呼びかけなければ。呼ばなければ、彼がどこかへ行ってしまう。そんな儚さが、今のエルにはあった。
エルの瞳がこちらを向き、「どうしました」と問いかけられる。「何でもない」と笑ってごまかした。
「あらっ、透桜子ちゃん」
突然、雨音よりも大きな声で名前を呼ばれ、声のしたほうを向く。人当たりの良い笑みを浮かべた年配の女性が、傘を差しながら歩いてきていた。市原早苗さん。近所に住む女性だ。
「お久しぶりです」
「お久しぶりねえ……この方は――?」
軒下に入ってきた市原さんが、興味深くエルを見つめる。どう言おうか迷っていたところ、代わりにエルが答えた。
透桜子さんちの居候です」
「居候? 大学生とか?」
「はい、東応大学に通ってます」
よりによって、東大とは。透桜子は口元に手をやり、笑みを隠した。
「まあ、賢いのね~~」
彼女の目が好奇心に輝き、どういう関係なのよ、とこちらに話しかけてくる。透桜子は苦笑した。彼女の詮索好きは近所でも有名だ。
「彼は私のいとこなんです」
「はい、竜崎と言います」
当たり障りのない嘘に、エルが合わせてくれる。『竜崎』は偽名だろうか。市原さんは「まあ」と大げさに口元に手を当てた。
「いとこがいたの? 知らなかったわ!」
これ以上話すとさらにいろいろ聞かれそうだ。
「市原さん、傘などは持ってませんか? これから用事があるのに、傘を持ってきてなくて……」
しおらしく聞いてみる。もちろん用事などない。市原さんは準備がいいのか、普通の傘とは別に、折りたたみ傘を持っていた。
「いつもは持ってないんだけどね、今日はたまたま折りたたみが入ってたわ。よかったら使ってちょうだい。あ、返すのは週末で良いからね。明日は私、息子夫婦のところに泊まるからいないわよ」
礼を言って受け取る。市原さんは商店街に用があるらしく、反対方向へ去って行った。
貸してもらった傘を開くと、「持ちますよ」とエルが言ってくれた。エルの持つ傘の中に入る――相合傘だ。男性と相合傘をするのは、久しぶりだ。土砂降りの雨が傘を攻撃するように降ってくる。
「さっきの方は……?」
「市原さんていう、近所に住んでる方です。お話し好きなんです」
詮索好きと言えば悪意があるため、婉曲的に説明する。そこに目を瞑れば、いい人なのだ。傘も貸してくれるし、たまに漬物も頂く。そうでしたか、とエルは頷いた。彼の横顔に、先ほど感じた儚さはなかった。
二人で入るのには傘は小さく、左肩が少し濡れてしまう。エルのほうを見ると彼の右肩と右腕全体が濡れていた。自分のほうに傘を傾けてくれている。「もっとそっちに傾けていいですよ」と傘を向けようとしたが、「大丈夫です」とエルは頑固にも傾きを変えなかった。
「竜崎って、偽名ですか?」
傘のことは諦めて尋ねる。
「はい。本名を言って外国人と思われたら、出身や生い立ちを聞かれて面倒ですから」
「なるほど」と相づちを打つ。市原さんのことを知らずとも、話好きだと察したらしい。
世界的な名探偵の生い立ち。気にならないと言ったら嘘になるが、エルの生い立ちを聞くなら、自分の生い立ちも話さなければならない。自分のは生い立ちと呼べるほど立派なものではないが、まだエルに話したくはなかった。
角を曲がって坂が見えてくる。この坂を上り、右に曲がったところが家だ。もう遅いかもしれないが、どこか行きたいところはないか聞くと、エルは考えながら答えた。
「行きたいところは――あります。が、今はまだ行けません」
「……雨が降ってるから、ですか?」
行けないとしたら天気の問題か。尋ねてみたが、違った。
「いえ。気持ちの問題です」
気持ちの問題。心の中で反芻する。気持ちの整理がつかないと、行けない場所。
――たぶん。透桜子は思う。たぶん、エルはまだ、自分が異世界に来たことに、気持ちの整理がついていない。

家に着き、買った服のタグを切ったり、シャンプーたちを風呂場に置いた。今日買った服はすべて洗濯機に入れ、昨日の分と一緒に洗濯する。あらかじめ自分の服とエルの服を一緒に洗っていいか聞くと、彼は二つ返事で了承した。自分もエルのものに抵抗はないため、まとめて洗濯した。
洗濯が終わる頃には、雨は上がっていた。それでも、外に干して下着を盗まれたことがあるため、室内の、居間から少し遠い窓際の廊下に干す。除湿器を洗濯物の近くに置き、スイッチを入れた。少しでも乾くのが早くなれば、エルは父の服を着なくて済む。障子を閉め、洗濯物を見えなくした。
居間に戻ると、エルは窓の外を眺めていた。隣に行って、彼と同じく外を見る。雨上がりの青空が、雲間から覗いていた。曇っていたかと思えば雨が降り、止んだと思えば青空が差し込む。梅雨の天気は変わりやすい。
眼下に広がる住宅街を架けるように、虹が現れた。「あっ」と声が出る。
「虹ですね……」
「……うん、虹だね」
自然とくだけた口調になった。敬語でなくなったことを、エルは気に留めていないようだった。
「アイルランドでは、虹の麓に宝物があると言い伝えられています。レプラコーンという、妖精が隠したみたいです」
素敵で可愛い言い伝えだった。けれど、虹の麓にたどり着く事など不可能だ。「どうやって、麓まで行くの?」と聞いてみると、エルは薄く笑った。彼の笑う顔を、初めて見た。驚きに目を瞬く。エルは虹を眺めながらこう言った。
「麓に行くことはできないので、レプラコーンを捕まえて、どこに財宝を隠したか、白状させるしかありません。瞬きしたり、少しでも目を逸らすとすぐに消えてしまいます」
「じゃあ、虹の麓に行くのと同じくらい、不可能なんだね」
そう結論づけると、「まあ、そうですね」とエルも同意した。
「子供の頃に教わった話?」
「……はい、昔、教わりました」
エルの目が、遠く、虹を突き抜けた向こうを見つめる。懐かしむ様子に、良い記憶なのだろうとわかった。誰に教わったのか気になったが、まだ込み入ったことを聞くのは早い気がして、口を噤んだ。
二人でお昼を食べ、ソファに座る。することがなかったので、テレビをつけた。主婦向けの情報バラエティ番組『ニチヨウナンデス』が映し出される。SNSで有名な動画が紹介されていた。
「昨日から思ってたんですが」とエルはおもむろに言った。
「SNSって何ですか?」
「えっ、知らない?」と思わず声を上げてしまった。
「ツイッターとか、インスタグラムとか……ああいうのがSNSだよ」
彼はどちらも知らないようだった。自分の携帯でツイッターを調べ、エルに見せる。あいにく透桜子はツイッターもインスタグラムもやっておらず、アプリをインストールしていなかった。
「ツイッターは一四〇字以内で、自分の『呟き』を皆に見せるところ。インスタは自分の画像を見せるところだよ」
拙い説明だったが、エルは納得してくれたようだった。
「全世界に呟きや画像を公開するということですか?」
「そう」と、今度はインスタグラムを見せながら頷く。
「SNSの意味は?」
「ちょっと待って」と携帯で意味を調べる。彼はスマートフォンにも関心を示した。
「それは、携帯なんですか? ヌーヌルの画面ですが……」
「そう、スマートフォン。略してスマホ。アッピルが開発したのが最初かな。パソコンみたいに使えるよ」
調べた結果、SNSは『ソーシャルネットワーキングサービス』の略で、登録された利用者同士が交流できるWebサイトの会員制サービスのことだった。電話番号やメールアドレスでアカウントを取得して、会員となる。
「エルの世界にはなかったの?」と聞くと、彼は「まだなかったです」と答えた。
「まだ?」
「私の世界の西暦は、二〇〇四年でした」
一五年前の世界から来たのか。透桜子は驚きを隠せなかった。タイムスリップしたという、昨日のエルの言葉を思い出す。
「そうだったんだ」と、ありきたりな相づちしか打てない。
「私の世界でも、二〇一九年になれば、スマートフォンもSNSもあったかもしれませんね」
そう言ったエルの声には、何の感慨もなかった。

その日はエルとテレビを見て過ごした。エルの知らない単語を、携帯で調べてエルに教えながら。エルはすっかり『二〇一九年』に対応できるようになった。
夕食を食べた後、透桜子はエルに合い鍵を渡した。スペアとして長く使っていなかった鍵だ。
明日から仕事で不在になる。だから、一人で外出できるように。
「電車に乗りたいとか、施設に入りたいと思ったときは、声をかけて。エルがよければ、私も一緒に行くから……夕方や週末になっちゃうけど」
お小遣いのように、お金を渡すこともできた。しかしそれは何か違うと思ったし、何よりエルが消えてしまいそうでこわかった。雨宿りに見たエルの儚げな横顔が、目に焼き付き、忘れられなかった。
エルは鍵を摘まむように持ち、礼を言った――彼の微笑む顔を見るのは、二度目だった。

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