透桜子は、梅雨の季節が好きだった。しとしととやさしい雨音が耳の奥に染み込むのも、青葉の柔らかな匂いが立ち込めるのも。
夕暮れ時、傘の中で反響する音を聞きながら、今日も自宅へと向かっていた。自然と足取りが軽くなる。
ほとんどの人は雨を嫌う。濡れてしまうから、洗濯物を干せないから、暗い天気で気分が落ち込むから。理由はそれぞれだ。透桜子も共感はするけれど、それ以上にあじさいの花弁に雫が光り、カタツムリが白銀の筋を作るのを見るのが好きだった。
足取りが軽い理由は、雨が降っているからだけではない。加えて商店街の福引が当たり、手にはスーパーで買った野菜の詰まったトートバッグの他に、5個入のティッシュペーパーを提げていた。ティッシュはすぐになくなるため、いくらあってもいい。
透桜子は上機嫌でレインブーツのヒールを鳴らす。そのたびに水が跳ねる音がする。その水音に、こんな童謡があったことを思い出す。ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。子供の頃を思い出し、知らず知らず口角が上がる。笑みを気づかれないよう傘で隠した。通りには誰もおらず、車さえ通っていなかったが、誰がどこで見ているかわからない。こないだは近所に住む老婦人に、肉を値切っているところを見られてしまっていた。彼女との世間話の中でその話が上がり、老婦人の口調は決して咎めたり、軽蔑したりするようなものではなかったが、あれほど猛烈に、穴があったら入りたいと思ったのは初めてだった。
角を曲がり、家まで伸びる通りを歩く。家の手前には公園があり、たまに近所の子供たちが遊んでいる。それほど大きい公園ではないが、ブランコとジャングルジムが設置されている。
特に、何の気もなかった。ただ、今日は誰の姿もないだろうと思いながら、なんとなく公園を見た。予想に反して、そこには人の姿があった。それも、傘を持たずに佇む人の姿が。透桜子は驚き、思わず立ち止まってまじまじと見てしまった。
その人は公園の真ん中で、雨など降っていないかのように、ぼんやりと空を見上げていた。時折瞬くその眼は大きく、目の下には黒い隈がある。濡れそぼった髪も黒く、肌の白さを際立たせていた。雨を吸った服が、彼の肌にはりついている。鼻は高く、どことなく日本人ではないような感じを受ける。彼には、只者ではない雰囲気があった。
その人が、こちらを向いた。見られていることに気付いていたのか、特に驚いた様子もなく、こちらにゆっくりと歩いてくる。逃げようとは思わなかった。雨に濡れながら空を見上げているなど、危ない人のように思われるが、彼は大丈夫だという根拠のない自信が不思議とあった。目の前に立ったその人は、少し低めの、耳ざわりのいい声で言った。
「……すみません、ここはどこですか?」
ここ、というのは具体的な地区のことだろうか。少し考えて返答する。
「東京の、××市の中の、○○です」
「××市……」
その人は、考え込むように眉根を寄せた。今気づいたが、額にはりつく髪の間から、見えるはずのものがない。透桜子は驚いたものの、それを顔に出さないよう気を配った。
「あの……傘、貸しましょうか?」
ますます雨に濡れる彼が心配になり、傘を差し出すと、その人は「大丈夫です」と呟くように断った。濡れることなど全く気にしないどころか、それどころではないような、うわべの返事だった。差しだそうとした傘は行き場をなくす。気まずさを覚えながら自分の元へ戻すと、彼は口元に人差し指を置き、言った。
「……今日は、何日ですか?」
「六月八日です」
「西暦は?」
「二〇一九年です」
なぜわかりきったことを聞くのか。この人は大丈夫という直感は、間違いだったのかもしれない。後悔しつつも答えると、彼はますます眉をひそめ「二〇一九年」と、確認するように呟いた。それから空を見つめていた瞳がこちらを向いた。漆黒と言っていいほど真っ黒で大きな瞳に、どきりとする。瞳の奥に微かな迷いの感情が見えた。彼は口を開きかけるも、再び閉じる。口にすることを迷っているようだった。迷いの大きさに傘のことではないとわかった。「どうされました?」と彼が話しやすいよう声をかける。彼はするりと言葉を発した。
「……あなたの家に、あがらせていただくことはできますか?」
「……はい?」
話すのを迷うほどなのだから、よほど言いづらいことなのだろう。そう感じてはいたが、まさかそんな申し出をされるとは思わなかった。驚いていると、彼は再び口を開いた。
「不躾な申し出だと、私も思います。ですが……少し状況を把握したいんです」
「状況って……?」
彼はまっすぐにこちらを見て、落ち着いた声で信じられないことを言った。
「こんな言葉を使いたくないんですが……私は、未来にタイムスリップしてきたのかもしれません」

家に上がると言っても、玄関から一歩も中には入らない、と言うので、透桜子はそれを信じて家に案内することにした。若い男性を、それもタイムスリップしたと平然と言う人を、家に入れるのはどうかと思ったが、彼の物腰から聡明さを感じ、話だけでも聞いてみようという気になった。
戸を開け、玄関に彼を通す。服や肌から雫が落ち、床に模様を作っていく。タオルを持ってきて渡すと、その人は礼を言って、自分の髪や体を拭き始めた。あらかた拭くと、こちらにタオルを渡してくる。よほど濡れていたのか、タオルは水で重く湿っていた。
彼は言葉通り、玄関から家に上がる素振りを見せず、ただ、新聞を持ってきてくれないかと言った。言われた通り、今朝の朝刊を居間から持ってくる。その人は、じっと新聞の一面を見つめていた。表情の真剣さに、彼の言うことを信じてしまいそうになる。
「二〇一九年六月八日、土曜……『令和』というのは、新しい元号ですか?」
透桜子は彼に付き合った。
「はい。五月から、平成から令和に変わりました」
「……天皇が崩御されたんですね?」
こちらを見る彼の目は真っ直ぐだった。本気でそう思っているように見える。タイムスリップしたというのは、もしかしたら――。信じ始めている自分に、頭を冷やすよう小さく首を振った。
「いえ、天皇はご存命で……退位されて上皇になられました」
「上皇に?」
彼は目を丸くした。芝居がかってはいなかった。
「日本では長い間天皇は譲位されなかったと思ったんですが……そうだったんですね」
一人納得した彼は、二本指でつまむように新聞を開き、黙々と読み続ける。話すこともなく、手持ちぶさたになったため、その間に座布団を持ってきて玄関先に置いた。彼からの申し出だったが、家に上げておいて、座らせないのは悪い気がした。
「ここに座って読んでください。何か飲まれますか?」
家に上げたからには、客としてもてなす。それがこの家の仕来りだった。彼は驚いたように新聞から顔を上げた。
「……いえ、まだ全身濡れてますし、そんな状態で座ることはできません。何も用意していただかなくて結構です」
「ですが、今日は蒸し暑いですし……」
「いらない」と返す彼に、水分補給は大事ですよ、と声をかける。熱中症は雨の日でも発症すると、今朝テレビで知ったばかりだった。それを話すと、彼は折れたようだった。
「……では、アイスティーがあればそれを持ってきていただけると嬉しいです。できればシロップを入れて甘くしたものだと、ありがたいです」
「……わかりました」
予想外に注文が多かった。甘党なのだろうか。彼の口からシロップが出てくるとは思わなかった。幸いアイスティーもシロップも、来客用に用意してあった。コップに入れて持っていくと、彼は読み終わったようで、座布団の横に閉じられた新聞が置かれていた。アイスティーを渡せば、礼を言って彼は口をつける。一口飲み、尋ねられた。
「『キラ』という名前を、聞いたことはありますか?」
「……『キラ』? いえ、ないです」
「……そうですか」
彼は少し考えた後、呟くように言った。
「私は、違う世界に来てしまったのかもしれません……」
深刻さを含んだ声に、耳を傾けてしまう。
「違う世界って……前はどんな世界だったんですか?」
「以前は……この世界とあまり変わりはないんですが、犯罪者が突然心臓麻痺で次々と死んでいく、という事件が起きてました」
「それは……事件なんですか? 事故ではなく?」
いつの間にか、彼の話に夢中になっていた。彼は確信したように応えた。
「事件です。犯罪者を狙った、大量殺人事件。その事件を私は追っていました……ですが……」
それ以上は話さなかった。透桜子も、何も聞かなかった。彼はその先を話したくないようだった。
外から聞こえる雨音が、先ほどより強くなった。遠くで雷鳴も聞こえる。
「異世界の人間だという、証拠はありますか?」
証拠があれば信じるし、彼を追い出しはしない。「残念ながら」と彼は首を振った。
「証拠はありません……私は何も、持ってませんから」
途方に暮れたように、彼は言った。証拠はない。けれどこのまま、外へかえすような真似はできなかった。異世界から来たという話を、完全に信じたわけじゃない。ただ、彼の話と雰囲気から、本当かもしれないと思いはじめていた。「あの」と声をかける。
「もしよかったら……ここに泊まっていきませんか?」
彼の黒い目が見開かれた。慌てて説明する。
「違う世界から来たということで、あても何もないですよね……? だから、私の家に、元の世界に帰れるまで住んでいただいて大丈夫です」
「……それは、ありがたいですが……ご家族は?」
「家族は皆、私が高校生の時に亡くなってます。何年もこの家で、一人で暮らしてるんです」
だから、大丈夫です、と微笑むと、彼は一度瞬きをして、そうだったんですねと頷いた。同情せずさらりと受け流した彼に、好感を持った。
「本当に、ここに住まわせていただいてよろしいんですか?」
念押しするような彼の言葉に、「はい」と深く頷く。もう後戻りはできない。彼は安堵したようだった。
「ありがとうございます。感謝します……これから、よろしくお願いします」
猫背をもっと折り曲げて、彼はお辞儀する。透桜子も、よろしくお願いします、とお辞儀を返す。人と暮らすのは、久しぶりだ。それも家族ではなく、見知らぬ男性と住むなど初めてだ。大丈夫だろうかという不安と緊張と、そして誰かと久しぶりに暮らすことに対する、少しの高揚があった。

まずは濡れた体を温めなければ、風邪をひいてしまう。そう思った透桜子はタオルをもう一枚持ってきて、靴を脱いで足を拭くよう促した。彼はスニーカーを、踵を折って履いていた。脱ぐと白い素足が現れる。泥で汚れたスニーカーとは対照的な白さだ。足裏もちゃんと拭いてもらっている間に、父の部屋のタンスから適当な服と下着を見繕う。他人の服、とりわけ下着など、着るのは嫌だろうと思ったが、男物の新品の下着などないため仕方がない。念のため彼に確認すると、特に気にしないと答えてくれた。風呂場まで案内する。
「……この家は、広いですね」
彼を連れて廊下を歩いていると、後ろから声をかけられる。振り向くと、彼は家を見回していた。
「そうですね、たぶん、広い部類に入ると思います……年数は経ってますが」
築五〇年以上の、伝統的な日本家屋。祖父が建てたと父から聞いていた。祖父も父も、医者をしていた。
風呂場に着き、着替えを脱衣所に置く。
「どうぞ、シャワーを浴びて温まってください。私の……女性ものでよければボディーソープもあるので、お使いください。脱いだ服はこのかごに入れていただければ、後で洗濯します」
竹で作られた、空のかごを指さす。昨日洗濯しておいてよかった、とひそかに思った。彼は再び礼を言った。
「ありがとうございます、何から何まで、助かります」
「いえ、ごゆっくりどうぞ」
笑って、脱衣所の戸を閉める。彼は礼儀正しい人だ。礼節を重んじていた父が生きていたら、きっと彼を気に入っただろう。けれど最初は、その曲がった背に眉を顰めるかもしれない。そう考えた自分に、心の中で笑う。一体、何を考えているのだろう。
彼がシャワーを浴びている間、彼のスニーカーが乾くよう、新聞紙を丸めて中に入れる。泥もできるだけ拭っておく。彼はサンダルのようにスニーカーを履くのか、底が踵のところだけすり減っていた。物を大事に使うよう躾けられてきた透桜子には、踵をつぶして靴を履く人の気持ちがわからない。ただ、軽蔑の感情は湧かなかった。彼は『靴を踵をつぶして履く人』。そういう個性なのだと、受け止めた。靴下も履かない主義なのかな、と白い素足を思い出した。
考えるうちに、名前を聞いていないことに気づく。自分も名乗っていない。たぶん、どちらもそこまで考えが回らなかったのだろう。自分は彼が風邪をひかないよう準備することで頭が一杯だったし、彼もまた、異世界に来たという特異な出来事に、混乱していたのかもしれない。一見落ち着いているようでも、中身を表に出さないよう押し殺しているだけということは、生きていれば度々ある――両親の葬儀の時も、そうだった。
風呂から上がった彼は、微かに甘い、石鹸の匂いを漂わせていた。慣れ親しんだ、自分の香り。シャンプーもボディソープも使ったらしい。咎めることはせず、早速名前を聞いた。「エルです」と彼は短く答えた。ELLEの四文字が頭に浮かぶ。しかしそれは、フランス語で『彼女』の意味だ。スペルを尋ねると、アルファベットのLだと、エルは答えた。
「アルファベット一文字のL……なんか、かっこいいですね。映画の主人公みたいで」
素直に感想を述べると、エルは袖を捲りながら、不思議そうに瞬きをした。
「かっこいい、ですか? はじめて言われました」
父の服は、エルにとって少し大きかったようだった。上は袖が長く、ズボンはエルが着ていたジーンズと同じく緩い。
透桜子さんの名前は、とても綺麗な名前だと思います。誰が名付けてくださったのですか?」
ソファの上に乗る彼は、隣に座る自分に問いかける。エルがこの上なく自然に、ソファの上に腰を下ろすのを、透桜子もまた自然に受け入れた。
「父です。女性らしくおしとやかに育つようにと、願っていたようです……その願いは、叶っていないようですが」
小さく自嘲する。バーゲンセールに参加し、値下げ交渉もする姿を父が見たら、卒倒するかもしれない。
窓の外が光ったかと思えば、大きな雷鳴が響いた。思わず肩が跳ねる。大丈夫ですか、と心配してくれるエルに口角を上げて頷き、立ち上がる。壁の時計はすでに一九時を回っている。
「そろそろ、夕飯の用意をしないとですね。お腹はすいてますか? 食べたいものはありますか?」
「……いえ、そんなには減ってません。透桜子さんの作ったものなら何でもいただきます」
遠慮しているのだろう。彼の声音からそれを悟った。テレビを見たければつけていいと言って、エプロンの紐を肩に通しながら台所へ移動する。
――何でもいい、かあ。
その言葉が一番献立を悩ませると、彼は知らないだろう。今日は魚の煮つけと、鉄分をとるためのひじき、そしていつもの味噌汁を作るつもりだった。が、いくら何でも地味すぎる。少し考え、カレーにしようかと思い立つ。カレー嫌いな人を聞いたことがない。みんな大好き、カレーライス。透桜子は今日買ってきたじゃがいもを洗い始めた。
「いい匂いですね。手伝いましょうか?」
あらかた作り終わり、最後にルーを溶いているときだった。エルの声に振り向くと、彼はいつの間にか、台所の戸口に立っていた。その後ろでニュースを読む声が聞こえてくる。言葉に甘えることにした。
「あ、じゃあお皿を出して、ご飯よそっていただいてもいいですか?」
カレー皿はそこに入ってます、と指さす。エルは皿を取り出し、しゃもじを持った。そのまま掬おうとするのを見て、声をかけた。
「しゃもじ、水でさっと濡らしてもらってもいいですか?」
ああ、とエルは納得したようにうなずく。
「米がつかないようにするんですね」
「正解です」
濡らしたしゃもじでご飯をよそっている間、透桜子はカレーの味見をした。うん、いい具合だ。エルがこちらに皿を持ってきてくれる。垂れないよう、慎重にルーをかけた。
「できました!」
「おいしそうです」
テーブルを拭き、居間にカレーを持っていく。椅子を引いて座ると、向かいにエルが座った。椅子が小さいためか、食事時だからか、エルは足を下ろした、普通の座り方をしていた。
「いただきます」
「……いただきます」
スプーンを持ち、一口食べる。やはり美味しくできている。カレーを不味く作る人はそうそういないだろう。向かいに座るエルは、スプーンを摘まむように持って食べていた。座り方と同様、彼の癖なのだろうか。長年一人暮らしをしていた透桜子にとって、向かいに人が座り、自分の作ったご飯を一緒に食べている光景は、とても新鮮だった。
「どうですか?」
「美味しいです、とても」
表情を変えず、エルは応える。本当にそう思っているかはさておき、その言葉は嬉しかった。
「よかったです」
透桜子さんは、いつも自炊されてるんですか?」
「はい、できるだけ自炊するようにしてます。節約のために」
そうなんですね、とエルは頷く。
「お仕事は何を?」
「病院の、事務をしています。医療事務ですね……薄給なので、節約しないといけないんです」
父の遺産はあった。しかし、使うのは気が引けた。それは父や、祖父たちが稼いだお金だからだ。
「医療事務ですか。この辺の病院で?」
「はい、駅前の病院です……エルさんは――」
「エルでいいですよ」
遮られ、「え?」と聞き返す。
「エルで、呼び捨てで構いません」
傍らにあったティッシュを取り、口を拭きながらエルが言う。
「じゃあ……エル」
呼び捨てで呼んでみると、「さん」付けよりしっくりくるものがあった。
「はい」
「エルは、前の世界で何かお仕事されてましたか?」
「私は――探偵をしていました」
「探偵? 身辺調査などですか?」
探偵と言えば、浮気調査などを専門に行っている。そう尋ねれば、エルは首を振った。
「いえ、事件を解決する探偵でした」
彼の言う探偵は、いわゆるシャーロックホームズのような探偵だった。漫画のような世界だ。思ったが、口には出さなかった。
「えっ、すごいですね!」
感嘆する。そんなにすごいものじゃないですよ、とエルは謙遜する。なるほど、第一印象で感じた聡明さは、間違いではなかったらしい。透桜子は彼がどんな事件を解決してきたのか知りたくなり、エルが手がけた事件について尋ねた。エルは簡単に事件の概要、自分の推理と行動を話した。エルはあまり自分から行動せず、FBIなどの捜査員と連携していたらしい。食卓にFBIの名前が挙がる日が来るとは思わなかった。
彼の話はとても興味深く、透桜子も推理しながら聞いた。気づけばとうにカレーを食べ終わり、二時間が経っていた。
「そろそろ、片づけましょうか」
エルは話を切り上げた。彼が来た時に話していた、犯罪者が心臓麻痺で亡くなっていく事件が気になったが、エルは話したくないようだった。エルが洗い物をしてくれ、透桜子は使っていない客間に布団を敷いた。居間の隣の部屋に当たる。この家はトイレ以外すべて襖なので、プライバシーには欠けるが、この客間をエルの部屋として使うことにした。
すでに二二時を過ぎていた。風呂が沸いた旨をエルに伝えると、先ほどシャワーを浴びたので入らないと言った。透桜子はエルのいる中で風呂に入ることに不安を感じた。明日は日曜だが今日は暑かったし、これから先、入らない訳にはいかない。顔に出ていたらしく、エルは言った。
「お風呂に入る透桜子さんを、どうかしようなんて思ってませんよ。女性に興味がないわけではありませんが、男としての矜持があります。信じてください」
異世界から来たと話していたときには出てこなかった、「信じて」の言葉。透桜子は信じることにした。エルは本当に風呂場に来ることはなく、ほっと胸をなで下ろした。
お風呂をあがると、エルはまだ居間でテレビを見ていた。隣の部屋に布団を敷いたことと、自分はもう寝ることを伝えた。
「私の部屋は二階にあるから、何かあったら来てください」
先ほどのエルの言葉から、寝込みを襲われるかもしれないという不安はなかった。エルはわかりました、と頷いた。
「……明日は、エルの服を買いに行きましょうか」
父の服はエルには大きかったし、他人の服をずっと着るのは嫌だろう。提案すれば、エルは「そうしていただけるとありがたいです」と言った。
「私はもう少しニュースを見てから寝ようと思います……おやすみなさい、透桜子さん」
久方ぶりにかけられた挨拶に面食らいつつも、挨拶を返す。
「……おやすみなさい」
居間を後にし、自室への階段を上がる。
――おやすみなさい、か。
口にすると、やはりいい言葉だなと感じる。おやすみなさい。何年ぶりにこの挨拶を交わしただろう。一人分以上の料理を作ったことも、挨拶を家の中で交わしたのも、随分と久しぶりのような気がした。

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