「……ワタリ、そろそろ免許返納を考えたらどうでしょう?」
書類を片付けていたワタリは、突然かけられた言葉にはたと手を止めた。当のLはこちらを見ず、画面を注視しながら言った。
「免許を返納した人の平均年齢として、70代前半が多いようです。ワタリに限って事故を起こすなど考えられませんが、念には念を入れた方がいいかと……」
「……しかし、それでは運転手を雇うことになります。その者はLの素性を知ることになる」
Lはくるりと椅子を回して、ワタリを見た。
「初めから私を知っている者を雇えばいいでしょう。例えば――
ナナ・
ブラウンとか」
ナナ・
ブラウン。懐かしい名前だった。かつてワイミーズハウスにいた女性で、Lと当時よく喧嘩していたのを覚えている。彼女は正義感が強く、子供を泣かせるLに詰め寄っていたものだ。
「……会いたくなったんですか? 彼女に」
微笑みとともに言うと、Lはまた椅子を回しモニターの方を向いた。
「別に、そうじゃありません……ワタリももう高齢なので、ワタリの後継者として彼女が適任と思っただけです。ハウスにいた当時、夢がなくて悩んでいたようですし」
Lの言う通りだった。他人に興味がなさそうで、実はよく観察している。
ナナは確か、ハウスを出たあと、事務員として就職したと聞いていた。持ち前の正義感を活かして警察官になるのはどうかと話したことはあるが、
ナナは断った。父のように殉死するのはごめんだと、彼女は笑った。
ナナの母親は
ナナが生まれてすぐに亡くなり、ハウスに入るまでは父親に育てられた。
ナナの父親は刑事で、彼女の正義感は彼から受け継がれたのだとよくわかった。
「……では、早速
ナナに掛け合ってみます」
Lがこうして他人に興味を持つのは珍しく、ワタリは自分の後継者がほしいとも思ったことはなかったが、Lの命令に従うことにした。何より、彼が
ナナに会いたがっているのだ、断る理由などない。
「お願いします」と言ったLの声はいつも通り平坦で、何の感情も読み取れなかった。
その電話がかかってきたのは、12時を回ったころだった。
お弁当を食べていた
ナナは、知らない番号だなと思いつつ電話に出た。
「はい」
「
ナナさんですか?」
ゆったりとした深みのある声。
ナナはある人物が浮かび、はっとした。
「……はい」
「キルシュ=ワイミーです。お久しぶりです、
ナナ」
「お久しぶりです、ワイミーさん」
「今お時間よろしいですか?」
ワイミー自らが連絡してくるとは、何があったのだろう。どきどきしながら「はい」と返事する。
「実は、お願いがありまして……単刀直入に言いますが、
ナナにLの世話をしていただきたいのです」
「えっ?」
思いがけない言葉に、頭が追いつかない。周りに人がいないことを確認し、声を落とす。
「わ、私がLの世話ですか?」
「そうです。私も高齢になり、Lは私の運転を心配しています。
ナナには運転手と、Lに関する世話の助手をお願いしたく」
ワイミーさんの高齢を心配しているのなら、すべてLがやったらどうか。思ったが口には出さず、代わりにこう尋ねた。
「……どうして、私なんですか?」
「Lからの希望です」
そう言われてしまっては、何も言えない。けれど急にお願いされても困る。
「こ、困ります、私にも仕事がありますし……」
ワイミーさんは引き下がらなかった。
「ならば、休みの日だけLの世話をするというのはどうでしょう?」
もちろん謝礼はいたしますよ。
この一言で
ナナの心は揺れた。世界的な名探偵となったLはきっと、莫大な資産を持っている(税金はちゃんと納めているのだろうか)。Lからの謝礼であれば、それは50や100ポンドのことではない。悩んだ末、
ナナはこう答えていた。
「……じゃあ、一度見学に行きます」
Lはイギリスに住んでいるらしく、
ナナの家からそんなに時間がかからなかった。目隠しを外され、
ナナは目に入ってきた光景に瞬きする。
壁も、奥行のある廊下も、すべてが白く、無機質な明かりで照らされていた。Lらしいな、と
ナナは思った。Lのために作られた、Lのための秘密基地なのだろう。
「Lの捜査室はこちらです」
ワイミーさんに案内され、ある一室に入った。上等そうなソファと、肘掛椅子が部屋の中心にあり、ひとつの壁にはモニターが一面に埋め込まれ、その前にLが座っていた。お馴染みの、両足を椅子の上に置く姿勢で。
振り向いたLは立ち上がり、こちらへやってきた。ジーパンのポケットに手を入れているためか、物凄く猫背だ。そして隈がひどい。
「……お久しぶりです、
ナナ」
「……久しぶり」
本当に久しぶりだった。久しぶりすぎて、何を話していいかわからなかった。沈黙を取り繕うように、ワイミーさんが言った。
「お互い積もる話があるでしょうし、ケーキでもいかがでしょう? 仕事内容はその後説明します」
「そうですね」
Lはケーキが食べたかったのか、乗り気だった。こうなったら拒否する訳にもいかず、
ナナは諦めてソファに腰を下ろした。
ワイミーさんがトローリーを押してきて、ケーキと紅茶を準備する。
ナナはその様に不安を抱いた。Lはまだワイミーさんにこんなことをさせているのか。そしてこれを今後自分がやることになるのか。頭を抱える
ナナに、Lは「大丈夫ですか?」とイチゴを食べながら言った。
「全然大丈夫じゃないよ……L、まだワイミーさんに執事みたいなことさせてるの? ワイミーさんのこと心配するんだったら、全部自分でしないとダメだよ」
「
ナナ、これは私が勝手にやっていることです」
「そしたらワイミーさんも悪いです。Lを甘やかしすぎです!」
昔からワイミーさんはLに付きっきりだった。だからこんな大人ができてしまったのだ。
「……
ナナは、私が自立すべきだと?」
もぐもぐと素知らぬ顔でケーキを食べていたLが言った。
「もちろん! 私と同い年だったら、一人で何でもできるようにならないと……ワイミーさんがいなくなったらどうするの?」
「だから
ナナを呼んだんですが」
「えっ、私ワイミーさんの後継者なの?」
ワイミーさんを見ると、頷かれた。
ナナは本格的に頭が痛くなってきた。駄目だこの二人……早く何とかしないと……。
「とにかく、Lは自分のことをちゃんとやって! 私はワイミーさんの後継者になるつもりはないから」
「……そしたら、
ナナへの謝礼もなくなりますね」
Lはフォークを二本指でぷらぷらさせながら言った。う、と
ナナは狼狽する。それは困る。仕事のお陰で最低限の生活はできているが、手取りが少なく貯金はほぼできていないのだ。謝礼はできたらもらいたい。
「……わかった。運転手にはなるけど、Lの世話は最低限のことだけやる。最終的にはLが自立するのを目指すから!」
そう宣言すれば、Lは心底嫌そうな顔をした。
「……人選、間違ったようです」
Lの呟きにワイミーさんが笑った。
ケーキを食べたあとは、ワイミーさんの後について色々な部屋を見て回った。Lのためのお菓子が置かれているキッチン、シャワー室、トイレ(もちろん女子トイレなどはなく共用らしい)、そして――。
「……これは何ですか?」
大きなドラム式洗濯機、としか言いようがないものが、部屋の中心に置かれていた。
「ヒューマンウォッシャーです」
「え?」
今なんと。
「L専用の、体を洗う機械です」
「ワイミーさんが発明したんですか?」
「はい」
「へえー……ってことは、Lは自分でお風呂に入らないんですか?」
まさかと思い尋ねれば、「はい」とワイミーさんは当たり前のような顔で頷いた。
ナナは「ええ……」と引いてしまう。
「ハウスにいたときは、L、自分でお風呂入ってましたよね?」
「はい。ですが、捜査をするようになってから、すべてが面倒になったらしく……Lの服の脱着も私がしてます」
「…………」
いい大人が、自分の服も脱ぎ着できないなんて。よほど引いた顔をしていたのか、ワイミーさんはフォローするように言った。
「しかしLはそのおかげか、捜査だけに頭を使うことができてます。犯罪検挙率も上がってます」
「……そうですか」
この件に関して、これ以上話しても響かないと気づいたらしく、ワイミーさんは今度は車庫を案内した。ワイミーさんが電気を付けると、黒塗りのリムジンが現れた。
「わあ、リムジン! 素敵」
「この鍵でエンジンを掛けてみてください」
ワイミーさんから鍵を受け取り、運転席に乗る。座席はふかふかで、ハンドルは革が貼られている。キーを差し込んで回せば心地よい音ともにエンジンが掛かった。助手席にワイミーさんが乗り込んでくる。
「いいですねー、さすが高級車です」
「試しにちょっと走ってみましょうか」
ワイミーさんは車内にあったリモコンを外に向け、ボタンを押した。機械音とともに、シャッターが開かれる。眩い陽の光が飛び込んできた。
「……この場所の位置はわかってしまいますが、運転手をするならばいずれ知ることです」
それはそれで大丈夫なのか。アクセルを緩く踏みながら、
ナナは尋ねる。
「場所を知ってしまったら、Lを狙う人から危ない目に遭わないですか?」
「大丈夫です。LはLとして外で名乗ったことはありませんし、
ナナは毎回私が迎えに行きます……ただ可能性はゼロではないので、何らかの対策は必要ですね」
「……私がこの場所を誰かに漏らす可能性は?」
適当にウインカーを出し、左折しながら言ってみる。ワイミーさんは笑った。
「その可能性はなきにしもあらずですが……私もLも、
ナナを信頼してます」
「……ありがとうございます」
しばらく、日差しのたっぷりと降り注ぐ道を走った後、車庫に戻った。駐車してエンジンを止めると、「いいですね」とワイミーさんからお褒めの言葉を貰った。
「運転は緩やかでしたし、揺れもあまり感じませんでした。駐車もスムーズにできてます」
「一応、毎日車で通勤してるので……」
「これなら、私の代わりに運転をお願いできます」
合格のようだった。
車を下りると、再びキッチンに通される。
「そろそろ糖分と紅茶が必要な頃です」
「……ケーキを食べてから、まだ一時間しか経ってませんよ?」
「一時間に一度、Lは糖分を欲します。用意する時間がなければ、あらかじめ菓子を大量にLの前に置いておけば大丈夫です」
Lは動物かなにかのようだった。「
ナナは紅茶をお願いします」と言われ、ポットに茶葉を入れて沸かしたお湯を注ぐ。ダージリンのいい香り。ポットを見て、ワイミーさんはまた「いいですね」と言った。
「蒸らし具合も丁度いい……紅茶はよく飲みますか?」
「はい、好きで……」
「それはよかった」とワイミーさんは微笑んだ。
「先程の運転といい、
ナナはLの世話役として申し分ありません」
Lの世話役として、ワイミーさんに褒められるなんて。
ナナは複雑な気持ちになりながらも、「……よかったです」と答えた。
Lは先程と変わらずモニターの前に座っていた。ワイミーさんに言われてケーキと紅茶をサーブする。「ありがとうございます」と礼を言って、Lは早速紅茶に口をつけた。
「……美味しいですね。
ナナがいれたんですか?」
「うん」
「やっぱり素質はありましたね……」
ずず、と啜るLに顔を顰めながら、モニターを見る。
ナナの知らない言語で書かれた、書類のようなものを読んでいるようだった。
「……それ、何語?」
「パンジャーブ語です。インドとパチスタンにまたがるパンジャーブ地方の言語です」
「……へえー」
Lは何ヶ国語を習得しているのだろう。思ったけれど聞かなかった。世界の全ての言葉を習得している、なんて答えられたらこわいからだ。
「Lは、捜査楽しい?」
「……楽しいです」
「そう」
Lはこちらをちらと見た。
「なに?」
「いえ……昔だったら突っかかってきそうだなと思ったので。人の命が掛かっている捜査を楽しむんじゃないとか何とか言って」
ナナは笑った。
「私も丸くなったの。今はもう、昔みたいな正義感はなくなった。Lが捜査をゲームと思ってても、なんとも思わないよ」
「……そうですか」
沈黙が落ちる。なんとなく気まずくなり、
ナナはLの椅子の背もたれをぽんと掴んで言った。
「……じゃあ、私帰るね」
「はい」
「
ナナ、これを」
ワイミーさんから携帯を渡される。
「ここに来たい時はこれで連絡してください。あとこれが謝礼です」
「謝礼って……私、今日何もしてませんよ?」
「来ていただいたお礼です、どうぞ」
分厚い封筒だった。きっと口封じ代も入っているのだろう。そっと受け取る。
「……ありがとうございます」
「ではL、
ナナを送ってきます」
「はい、気をつけて」とLはこちらに背中を向けたまま言った。
「……Lは免許証持ってないんですか?」
捜査室を出て、ワイミーさんに気になっていたことを尋ねる。
「持ってませんが、運転はできるでしょう」
「Lを教習所に行かせるべきでは?」
「……行かせたいのは山々ですが、Lも忙しくその時間がないのが実情です。ただ、免許証を偽造することはできます」
さらっと犯罪めいた言葉が出てきたが、
ナナはスルーして言った。
「今、どのくらいの事件を抱えてるんですか?」
「五件です。同時進行で進めてます」
五件もの難事件を抱えているのか。でもLのことだから、すべて解決してしまうのだろう。そしてまた、興味の湧いた事件を請け負ってしまう。
「……一旦休業にはできないんですか?」
「私も休んだらどうかと打診したことはあります。しかしLは、頭を動かしていた方が楽だと」
確かにLならそう言うだろう。ただそんな生活をしていたら早死しそうだ。
「息抜きは、してるんですか?」
「はい、たまに外に出てます……今度、
ナナの運転でLをどこかに連れ出しましょうか。きっといい息抜きになります」
「そうですかね……」
「そうです」
ワイミーさんは自信ありげに言い切った。
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